なぜ勉強しなくともいいか(4/1)

心に曇天執筆者はここ十数年、全く勉強していないが、愚かな非東洋医療者どもより正論をものす事ができる所を見ると少なくとも彼らよりは物の道理を心得ているようである。代替、連中は口を開けばエビデンスエビデンスと五月蠅いが、我が流派の最大公約数的に言ってエビデンスと言うのはフェアリーズレジデンスの略称もしくはタイポに過ぎない。今日び口に出すのも危険な単語である。非存在青少年とゆう言い訳はもはや通らない。


そんな危険な単語を何故連呼できるのか。これほど医療界の摩訶不思議はないと思うが、そば・寿司といったファーストフードばかり食べているから頭も歯も言葉も歪んでしまうのだろう。もちろんイルミナティの陰謀だが、そうなったのは医療者が馬鹿だからでもある。
我が流派の最高御馳走は300年前より牛丼一筋ときまっており、心に曇天執筆者などここ数年寿司などという洗脳食は食していない。御陰で痔疾の気を除くと至って心身健康である。イボ痔なかりせば、放屁で空も飛べただろう。


なぜ勉強せずともこれ程まで正論がはけるのか。一言で言うなら「量より質」を徹底しているからである。
愚かな非東洋医療者は何かと言うと量に着目してあーだこーだと姦しいが、まるで現実が見えていない。「百発百中の砲一門は百発一中の砲百門に勝る」という例え話があるが、冗談ではない百発撃って一発しか当たらない砲などタダの不良品ではないか。我が流派の最高性能を発揮する砲と比較すること自体間違えている。百門が千門であっても百発百中の優位は揺るがない。
わざわざ勉強などせずとも、この世は学びで満ちている。マスゴミによるジャンク情報をフィルタリングしても尚相当の情報が手元に残るだろう。植物ですら葉っぱにとまった害虫の足下からキチン・キトサンを吸収できるのだ。我々人類が情報を吸収出来ない理屈は無い。そう言えば、食害と微量の吸収成分では引き合わない、とか量に囚われた反論を敵対的に歯を剥き出しにしてくる輩がいたので思い切り嘲笑してやったが、量が増えると本質が変わるとでも言うつもりか。全く理解に苦しむ愚かさである。
無論情報は取捨選択されねばならない。言ってみれば情報の事業仕分けであるが、我が流派の最高蓮舫によるとコツは全く簡単で、要するに我が国にとって都合の悪い情報は大半がイルミナティに牛耳られたアメ帝による洗脳情報であるから無視してかまわない、のだそうだ。心に曇天執筆者から見るとこの「仕分け」には些か問題もあって、例えばΖレチクル星人の陰謀などはこの手法では除去しきれないのだが、まあ首相の偽装が簡単にバレて半ば公然と宇宙人であることが語られてしまうような程度の低い連中であるので、殊更気にすることもないだろう。
食べ物がふんだんにあっても咀嚼できなければ顔つきは歪んでしまう。情報を処理する優れた頭脳と真の知性が必要で、それさえ有るならば文字通り一を聞いて十を知る事が可能となる。それが本来の勉強の姿であり、教科書だ論文だととっくに死んでいる者の死んだ言葉や学説をありがたく拝領するだけの今の教育など、勉強の名に値しない。死せる孔明仲達を走らすとは言ったもので、目を凝らせば単なる木偶にすぎないことがわかるであろう。あげく日教組の陰謀に使われ日本人家畜化計画の出汁にされては「偉人」達も浮かばれまい。勿論、当然のことながら背後にはイルミナティがいる。勉強をただ重箱の隅をつつく技能としか思っていないイグノーベル賞受賞者どもには想像も出来ないだろうが。


肝心なのは偉人に学ぶことではなく、偉人に成ることである。
我が流派ではそれが可能だ。(当時としては)最高の頭脳の持ち主たる彼らの誕生の謎を、我が流派は解き明かし弁償法と忍式論にまとめ上げた。それを用いれば、例えば我が流派の最高奥義は「人間の潜在能力を引き出すツボ」を刺激することで、眠っていた潜在能力を引き出すことによって知力を数倍に高めることが可能である。これは、わが流派2000年の歴史上最も華麗な技を使う天才である我が流派の最高指導者が長年の試行錯誤のすえついに発見した経絡秘孔であり、心に曇天執筆者も実際にこの技に触れる機会があったが、半死半生の老人がたちまち筋骨隆々な大男にふくれあがる光景に信じられない思いを抱いたものだ。
施術者自身「ん!? まちがったかな…」と首をかしげる不完全な技の極まりであったのは残念であるが、それでも教育勅語の暗唱・3%だった消費税額の算出・一桁の掛け算などを即答して見せ、筋力に限らず知力をも昂進していることが歴然としていた。常人には不可能な領域だろう。
我が流派はそうした歴史の事実から救い上げた論理を踏まえて、練習体系を創ってある。それゆえ、頭がよくなると豪語し得るのである。
こうした問題に答えてくれる医学がはたしてあるのだろうか?