ペンが剣より強いなら、自粛は銃より強い

バーガー

 一月ぶりに更新していたので、早速覗いてきました。 

山本弘のSF秘密基地BLOG

言わずとしれたと学会会長、SF作家でもあられる山本弘先生のブログです。といっても、内容はミクにニコマス、パ行の腐女子*1 ……先生、何やってんすか(笑)。*2
 オカルトやサイエンスに関する考察もあって、これがさすが、面白い。ロリコン表現者として美少女を愛でる表現の自由に関してのエントリーもアツイです。
 今回は、業界の自主規制についてのエントリーが目にとまりました。

毬江がテレビに出なかったわけ

活字倶楽部』2008年秋号の有川浩ロングインタビューの中で、アニメ版『図書館戦争』のこんな裏話が披露されていた。


有川 (中略)例えばアニメで、小牧と毬江のエピソードが地上波で放送されなかったのは、毬江が聴覚障害者だという設定だったからなんです。毬江のエピソードはTVではできません、ということがアニメ化の大前提だったんです。

太字は引用者
図書館戦争』は未読なので、毬江がどの程度重要なキャラなのかは判断できません。ただ、Wikipediaによると

時は2019年、公序良俗を乱し人権を侵害する表現を取り締まる「メディア良化法」(実質上の検閲の合法化)が施行された世界。強権的かつ超法規的にメディア良化法を運用する「メディア良化委員会」とその実行組織「良化特務機関」の言論弾圧に唯一対抗できる存在が図書館だった。

どうやら検閲に銃で立ち向かう図書館員のお話なようです。こうゆう話をアニメ化するのに際して、「聴覚障害者(という設定)だからTV放送はNGね」というのは、毬江がどんなキャラであれ、私には悪い冗談にしか聞こえません。

続けて、山本先生はご自身が体験した業界の自主規制について記します。

ちょうど『神は沈黙せず』の文庫版のゲラチェックをやっていたのだが、いったん戻したゲラに、校閲者による膨大な数のチェックが入って戻ってきたのである。どれも単行本ではまったく問題にならなかった箇所だ。修正しろという命令ではないが、あらためて表現に一考をお願いする……というのである。
 どんな表現にチェックが入ったか、実例を挙げよう。

>ネットに流れた情報だけを盲信した人々が
>精神病院に入院させられているとか
>地球が狂いはじめているのではないだろうか
>狂信的な熱情にかられて行動した
>たちまち悪臭漂うスラムと化した
>自分の中にも狂気がひそんでいる可能性
>強いボスに盲従する猿たち
>いみじくもドーキンスが言ったように、「盲目の時計職人(ブラインド・ウォッチメイカー)」なのだ。
(中略)
>狂気に蝕まれている自分に言い聞かせた
 これでもチェック箇所のごく一部にすぎない。 つまり「狂」「盲」という字すべてにチェックが入っているのだ。

太字.中略は引用者。9項目省略しました。
 山本先生じゃなくたって、呆れますよね、こんなチェックされちゃ。仮にこの「検閲」を作家が受け入れたら、その小説世界では、どんなに汚れていてもスラムには悪臭は漂わないし、人々は熱狂も盲信も熱情に駆られることもない。万一心を病んでしまっても、精神病院にだけは入院できません。それが校正担当者の描くあるべき世界なのでしょうか?
 この後にも「盲点」を筆頭に7項目にわたって、ナンセンスとしか言いようのない抱腹絶倒な自主規制の実例が続きます。(他にも差別主義者の描写や「黒人」にチェックが入る。これを読んで頭がくらくらした人は、是非引用元をご覧ください。山本先生が痛烈に反駁しています(笑)。)
 これはもう、「言葉狩り」と言っていいでしょう。

 こうした「違反語狩り」が本当に差別をなくす目的ならいいことだろう。だが、現実は正反対だ。違反語リストを作って自主規制をしている人たちは、単純に言葉の言い替えで済ませているだけで、差別問題の本質など考えようとはしない。それどころか、障害者の抱える問題をリアルに描く作品や、差別を批判する内容の作品すら規制しようとする。
 違反語狩りは差別問題への真摯な取り組みなどではなく、正反対である。現実に存在する問題から目をそむけ、口をつぐむことで、被差別者についての正しい理解が広まるのを妨げ、間接的に差別を助長しているのだ。

 「言葉狩り」的な自主規制が詰まる所「思考停止」に他ならず、それが差別を助長させる―少なくとも問題の解決にはつながらない―と言うような議論は、昔から各所でなされてきました。これからもなされていくでしょう。今更私ごときが付け加えることはありません。

 繰り返す。『図書館戦争』はリアルな話である。銃撃戦こそないものの、僕らはすでに『図書館戦争』の世界で生きているのだ。

 山本先生のエントリーの結語です。
 実を言うと、この結語はまだ、希望的に過ぎると私は思っています。
 このエントリーを読んで最初に思い起こしたのは『放送禁止歌』(著者 森達也)と言う本です。
 この本は、「放送禁止歌〜唄っているのは誰? 規制するのは誰?」という伝説のTVドキュメンタリー番組の内幕を、番組のディレクターが書いたノンフィクションです。様々な理由で放送できない「放送禁止歌」。著者は、TV番組制作の現場で「放送禁止」の扱いが人によってちぐはぐであることに気づき、取材を重ねます。その結果、衝撃的な事実が明らかになります。

 「放送禁止歌について取材すると、ほとんどの人が民放連の名を黒幕としてあげてますね」
 「困っています」
 「というと?」
 「実質はガイドラインですからね」
 「ガイドライン?」
 「もしくは目安といってもいい。要するに要注意歌謡曲一覧は、一つの指標でしかないのです」
 便宜上ここまでの文中にも使ってきたが、「放送禁止歌」という呼称は実は正確ではない。正しくは「要注意歌謡曲」だ。民放連が一九五九年に発足させた「要注意歌謡曲指定制度」なるシステムが、放送禁止歌が存在する制度的根拠であり、規制の実体だ。(中略)
 「それに何よりも、このシステムはもう消滅しています」
 「どういうことですか」
 「言葉通りです。要注意歌謡曲一覧は、一九八三年度版を最後に刷新していません。つまり放送禁止歌なる概念は現存していないのです」

民放連は日本民間放送連盟の略称。中略は引用者
 少なくともTV放送においては「放送禁止歌」なるブラックリスト的一覧規制は存在しない、のだそうです(インタビューは二〇〇〇年)。つまり、著者がこれまで現場で触れてきた「放送禁止」の扱いは、結果としてすべて自主規制だったのです。

放送禁止歌は実在しない。巨大な共同幻想でしかない。具体的な放送禁止歌は、メディアに帰属する一人ひとりのイメージの中にしか存在しない。(中略)
 規制は今も続いている。日々増殖し続けている。なぜなら実体がないからだ。実体がないからこそ、容易に肥大するし尾ひれもつく。

中略は引用者
自主規制とは、まさに実体を持たない規制です。そこにはガイドラインも、コンセンサスもない。あったとしても、それは容易に解体し、易きに流れてしまう。行き着く先は、もっとも簡単な方法――差別に関するすべての言葉に、死を。
 おそらく、メディアに関わる人がそれぞれ、差別に正面から対峙して、一つ一つ判断するのが理想なのでしょう。メディアに携わる人間の当然の心構え、と言ってしまえばその通りなのですが。しかし。
 拳銃で武装している敵には、マシンガンで対抗できる。でも実体のない「何か」が敵だった場合。私たちには、どんな武器が必要なのでしょうか?

*1:im@s架空戦記シリーズはこちらで知りました。先生、ありがとうございます(笑)。

*2:今エントリーの「(笑)」は山本メソッドです(笑)。あしからず