図書館の理想vs理想の図書館

 えーと、中略・太字強調は以下引用者で。もうこれどこかに張っておこうかしら。
 今更なのかもしれませんが。PSJ渋谷研究所Xさま*1のエントリー理想の図書館に反社会的な本はあるかで知りました。こんな話題があったんですね。
図書館「ボーイズラブ」に揺れる 堺市、市民の不信感募る

ボーイズラブ(BL)」と呼ばれる男性同士の恋愛をテーマにした小説に、堺市の図書館が揺れている。市民の声を受けて貸し出しを制限したところ、反対に「特定の本を排除するのは問題」と非難が集中し、制限を撤回。「また突然、対応を変えるかも」と市民の不信感は募っている。
一般的にBL小説は、1冊に数ページのイラストがある。堺市立の7つの図書館が所蔵する計約5500冊のうち、100冊程度には男性同士が裸で絡み合うような過激な描写があった。盗難も多いため、申請があれば貸し出す閉架書庫に置いていた。
 しかし、ひっきりなしに貸し出されるため、4つの図書館では誰でも閲覧できる棚に配置。7月、「子どもが見るのにふさわしくない」との声が利用者から出た。
 図書館側は、閉架書庫に戻した上で、18歳未満への貸し出し禁止を決定。これに、住民グループが「特定の本を排除したり廃棄したりするのは、図書館ではあってはならない。政治的圧力もある」と反発。有識者も賛同し、11月に廃棄差し止めの住民監査請求が申し立てられると、図書館側は一転、18歳未満への貸し出しも認めた。

 堺市は「拙速で、判断を誤った」としている。

 上記の共同通信社の記事はよくまとまっているようですが、一部マスコミの報道にはいささか問題があったようです。住民監査請求の詳細はみどりの一期一会さまのコチラを参照のほど。報道の問題点に関しては、同ブログのコチラ、あるいはPSJ渋谷研究所X公立図書館の不遇:誤解増幅装置としての報道も参考になるかと思います。

 今回は対象がBLだったことで、問題に余計な彩り―同性愛や腐に対する偏見や悪書追放運動等―が加わってしまってますが、とりあえず今はそれを「余計な彩り」であるとして置いておきます。ちなみに私は誘い受け」で挫折し「ヘタレ攻め」で理解を放棄したクチですので、BLに対して特に言うことはありません。まあ、興味がおありの方は「やおい」「腐女子」で検索をかけるか右のアンテナから「となりの801ちゃん」に行って貰って、素敵にディープな世界を堪能して頂くとして。ただ、BL本(小説)は販売時点で別に18禁ではない(有害図書指定をされてない)ということは踏まえておく必要があるかもしれません。その是非はともかくとして。
 
 とりあえず、これは大前提ですが。図書館には資料を集め公開する義務と権利があります。図書館の自由に関する宣言から引用します。

 図書館は、基本的人権のひとつとして知る自由をもつ国民に、資料と施設を提供することをもっとも重要な任務とする。
(中略)
 1. 図書館は、国民の知る自由を保障する機関として、国民のあらゆる資料要求にこたえなければならない。
 2. 図書館は、自らの責任において作成した収集方針にもとづき資料の選択および収集を行う。その際、
 (1) 多様な、対立する意見のある問題については、それぞれの観点に立つ資料を幅広く収集する。
 (2) 著者の思想的、宗教的、党派的立場にとらわれて、その著作を排除す ることはしない。
 (3) 図書館員の個人的な関心や好みによって選択をしない。
 (4) 個人・組織・団体からの圧力や干渉によって収集の自由を放棄したり、紛糾をおそれて自己規制したりはしない。
(中略) 
第2 図書館は資料提供の自由を有する

 1. 国民の知る自由を保障するため、すべての図書館資料は、原則として国民の自由な利用に供されるべきである。
 図書館は、正当な理由がないかぎり、ある種の資料を特別扱いしたり、資料の内容に手を加えたり、書架から撤去したり、廃棄したりはしない。
 提供の自由は、次の場合にかぎって制限されることがある。これらの制限は、極力限定して適用し、時期を経て再検討されるべきものである。
 (1) 人権またはプライバシーを侵害するもの
 (2) わいせつ出版物であるとの判決が確定したもの

 要するに、BL本を収集・公開すること自体は、何ら図書館の理念に反する行為ではないと言うことです。理想の図書館に反社会的な本はあるかでは、より簡潔にこう言い切っておられます。

理想の図書館に反社会的な本はあるか
あるのだ。

なぜなら、内容で蔵書を選ばないのが近代図書館の本来の姿だからだ。

 ここで言う「理想の図書館」は、図書館の自由に関する宣言で高らかに謳われた「全ての資料を集め公開する」ことを使命とする図書館です。ビブリオマニアが夢見る「古今東西ありとあらゆる本を収蔵し公開する」ことを究極の目標とする図書館、と言い換えても良いでしょう。あらゆる図書を収蔵した図書館には当然、反社会的な本も収蔵されていようし、ましてBL本ならさらなり、と。当たり前ですね。
 私自身は軽度のビブリオマニア*2である自覚があるので、上記の理想は共有できる、と言うより疑ったこともないです。ただ、皆が私のようなダメ人間「図書館の理念」を共有しているなら、そもそも今回のような問題は起こらないわけで。
 PSJ渋谷研究所Xさまは、続いてこのようなエントリーを上げています。実は「図書館を市民の手に取り戻そう」運動?

 ぼくは、堺市の問題にしてもそれ以前からの問題にしても、要は上記の2点「理想の図書館には、あらゆるコンテンツがある」を前提にできるか、そして「理想が達成できないときに、優先コンテンツをどうやって決めるか」の問題なのだろうと考えていた。それで出口のない思いを抱えて悶々としていたわけだ。でも、ちょっと違っていたのかもしれないと考えはじめている。

きっと、「理想の図書館にはエロ本(あるいは残虐な描写のある本)なんてあってほしくない」とかいう人もいるのだ。また、「あってもいいけど、適切なゾーニングを」という人もいるのだ。管理したいのか管理されたいのか知らないけれども、ある存在が「より適切なのか」を選べると考えている人たちだ。それを無茶とか無知とか呼ぶべきでは、きっとない。それが現代なのだろう。

 従来の、と言うと語弊があるかもしれませんが、全ての本を全ての人に、と言うかつて共有された「図書館の理想」に違和感を持つ人が増えている。いわば、「理想の図書館」像が図書館の理念とズレているかもしれない、と言う指摘です。
 そう言えば、以前話題になった図書館とホームレスの問題でも、公開制限を唱える人やそもそも原則公開の理念を共有してない、しない人はいましたし、それなりの支持を集めていたように思います。蔵書のゾーニングとは真逆ですが。

これは市民が公共図書館の運営方針を自分たちが納得できるものにしようとしている、ということだと言えないこともない。

 エントリー名にあるように、PSJ渋谷研究所Xさまはこの一連の騒動を「図書館の運営を自らの手に取り戻そうとしている」、無知故に図書館の理念を無視しているのではなく、むしろその理念に対する挑戦である、と見なしていらっしゃるようです。

戦後60年ほどをかけて作り上げられてきたコンセンサスは、図書館を運営する人たちが作ってきた。今度は図書館を使う人たちがコンセンサスを作ろうとしているのではないか。

 図書館に関わる人達によって半世紀かけて築き上げられた図書館のコンセンサス、図書館の専門家達によって宣言された「図書館の自由に関する宣言」等は、本来尊重されるべきモノであるのだけれど。それを我が手に出来ると考える人は、専門家に対する敬意がないか、あるいはこちらの方が問題でしょうが、図書館の運営に専門性を認めないのでしょう。
 おそらくは後者で、今回BLを排斥しようとしている人は、図書館のサービスと他の公共サービスとの差異を見いだせないのではないでしょうか。図書館のサービスとは本来「知」の集積・発信基地としてあり、だからこそ理念が必要だったのだけれど、肝心の「知」に対する認識そのものが今や変容しつつあるのかも、と。図書館を我が手にしよう、できる、と考える背景には、「知」そのものを我が手にできるという考えがありそうに思うのです。もしくは、そんなモノ誰にも手に出来ない、と言う諦観が。
 
 理想の図書館像は、人によって違います。「知」が君臨、まで行かなくとも畏怖・尊重、何らかの特権的な存在であったならば、「図書館の理想」が模範解答として機能し、違いは表面化しなかったでしょう。しかし、昨今の「ニセ科学批判」批判や、西じゃない先生を巡る議論を見ると、今や知の領域に特権的な何かを求める事は望ましいことと考えられていないようです。
 であるなら。各人の理想の違いは何らかの手段で埋めることになります。多数決で、あるいは、最大多数の幸福でも市場競争でも良いですが。ホームレスにせよBLにせよ、排斥するも受け入れるもその手段によるパワーゲームの結果に依存し、理念の出る幕ではない。
 公共サービスを自らの手に取り戻す運動ととらえるなら、確かに望ましいことなのかもしれません。むろん、新たな理念が作られる可能性もあります。知が権力として君臨することに危機感を持つことも、自然な反応だと思います。それに、今の段階では、まだまだ図書館の理念は生きているとも思っています。
 しかし……いや、多分、全ては「図書館の理想」と「理想の図書館」が合致している幸運な男の身勝手なのかもしれませんね。 
 
追記 2008 12/29

PSJ渋谷研究所Xさま改め亀@渋研Xさまことkamezoさんからコメント頂きました! ありがとうございます。
 考えてみたら、お二人で運営されているのだったらブログ名でお呼びするのもおかしな話でしたね。以後、ご自称を尊重して「亀@渋研X」さんとお呼びすることにします*3。尚、敬称を様からさん付けに変えたのは単に私が調子こいているからです*4

>市民による専門家の領域への領空侵犯みたいなことはいろんな局面で起きていて、類似の事態のひとつだろうと考え始めています。

 そうですね。諾々と従いさえすればよかった「お上」の権威が崩壊しているのを私も感じます。裁判員制度なんか象徴的ですね。権威中の権威だった裁判でさえ自分の手にしてしまった。食や医師に対する不信や既存メディアの凋落も同じ文脈で語れるように思います。
 「知」にもそういう事態が進行していて、例えばニセ科学批判を非当事者が批判するといったことはこの文脈に乗る話だとも思うんです。(これに関しては、専門家である亀@渋研Xさんの知見を尊重すべきなんでしょうが。)図書館のある種特権的な立場は「知」の権威あってこそだと思うので、それが失われれば他の公共サービスと変わらない、と。

>ううう……そうなっちゃうと、激しく悲しいです……けど、しょうがないのかなあ……。
 
 理念によって護られてきたモノを思えば、失われれば取り返しが付かないことを思えば、そして、アレクサンドリア図書館から二千年かけて到達したのがこれだよこの事態であることを思うなら。確かに悲しいですね……。

堺市の対応の適不適を語る図書館人が、意外に少ないことが、なにかの現れなのか、それともそれは邪推に過ぎるのか、そこも自信がありません。

 むしろ少ないことの傍証になりそうですが。堺市図書館 blで検索かけた所このブログエントリーを見つけました。日々記―へっぽこライブラリアンの日常―

 一図書館業界人としては、この問題、どんどん叩いちゃってくださいって思っているのでした。叩けば叩くほど、「図書館の自由」という概念がいかに脆い足場に立っているかについても、その脆い足場をどうやって強化していくかについても、議論を深めることができるのではないか、という期待を持っています。

 恐らくすでに目にされていることと思いますが、ご参考までに。

 しかし、初コメントが亀@渋研Xさんとは……ブログ始めてよかったなぁ……*5
 

*1:どうも、中の人がお二人いるようなので以後、ブログの名前で呼びかけます。失礼しました。KAMEさま、でいいんですかね? ※コメント欄および 2008 12/29追記参照

*2:そして中程度に悪化した活字中毒患者です。

*3:コメント欄においてはkamezoさんとはてなIDでお呼びしていますが、これはコメント欄の仕様を鑑みた利便性に基づいたモノで、えーと、要するに他の方と区別するためですので、どうぞ皆様どしどしコメントお願いします

*4:ほとんど紹介エントリーだったので敬称「様」を付けさせて頂いたのですが、言及・掘り下げと仰って頂きましたのでこれはさん付けだろう、と。いや、それが調子こいていると言うんですが

*5:皆様も是非! 気楽にコメント下さい。