作家と著書と著名人
※注意:地下猫さんの追加エントリーおよび当ブログコメント欄等による応答によって、このエントリーで前提としていたいくつかの条件が誤解であることが判明しました(詳しくは最後の追記を参照して下さい)。必要な部分に赤注を入れましたが、初読の方には読みにくいと思います。リーダビリティの低下を招きましたことをお詫び申し上げます。
幸運な巡り合わせと言うのはあるモノで*1。はてブ参入以降とみに実感しておりますが、そもそもネットに繋いだとき、最初に覗いたのが山本先生のサイト「山本弘のSF秘密基地」だったんですが、そこからリンクされたNATROM先生を知ったことが、私にとっては大きな巡り合わせであったと今にして思います。掲示板の議論を貪るように読み耽ったあの頃がつい昨日のようです。すげえ時間掛かりましたけど。
その後しばらく経った頃、検索フォームにしょっちゅう引っかかる印象的な名前のサイトに気がつきました。地下生活者の手遊び。引っかかると言うことは恐らく興味の方向が似ているのだろうとサイトを覗いてみたんですが、一読してこれが幸運な巡り合わせであることを確信しました。予想よりさらに一歩深く踏み込んでくる鋭い論点、隙がありそうでない論旨、そしてにゃ。未見の方がいらっしゃいましたら、こんなブログ見ているヒマにってこれ前にもやったな是非にとお薦めいたします。
そんな訳で開設以来、いつか言及したいとじっとスキ機会を窺っていたんですが、ようやく頃合いの話題が。これ幸いと実はスルーしようと思っていたんですけど、村上春樹*2のエルサレム賞受賞関連について思う所を。
まず。私は村上春樹と言う作家はほとんどエッセイしか読んでいません(そしてエッセイは村上朝日堂シリーズはもとより、かなり読み込んでいます。ランゲルハンス島や遠い太鼓とかまで)。小説の方は「TVピープル」だけ。感想は、不思議な感覚だな、位で取り立てて何か心に引っかかった訳ではないです。ノルウェーの森は最初の1pで挫折しました。以上を前提に。
地下生活者の手遊び様でこんなエントリーが上がっていました。ムラカミハルキという作家への僕の判断が依存するもの
例えばだ、アインシュタインとかファインマンさんとかいう偉大な科学者を評価するにあたって、彼らの手による専門の論文を読まなければ僕らは彼らを評価できにゃーのだろうか?
彼らの偉大さや魅力は、その知力だけでなく、人道面の活動やエピソードにあるのではにゃーのかな? 少なくとも僕はそうなんだけど。
(中略)
で、僕にはさっぱり理解も共感も不可能なムラカミハルキが、イスラエルから文学賞をもらうんだって?ふむふむ、僕にはムラカミハルキのブンガクはアインシュタインやファインマンさんの論文と同様に理解できにゃーので、僕にとってムラカミハルキという作家の判断は社会的・人道的なエピソードに依存せざるをえにゃーな。
(中略)
僕は1人の愚かな大衆として、その社会的な言動で作家を評価するつもりですにゃ。僕の判断のありかたって、どっかおかしいだろか?
おかしいだろか? と仰るなら、おかしくはないと思います。少なくとも作家という言葉がその人の属性そのものを指すのでなく、いわば代名詞的にその人自身を指すのであるなら。
作家と著作と著述の関連性に付いてはここでは触れません。作品には作者の影響が強く反映して、とか、作家にとっては振る舞いも含めて作品だ、とかややこしい議論には踏み込まない、と言うことですだってややこしいし。tikani_nemuru_Mさん(以降、地下猫さんと呼ばせて貰います)自身
同時代の人物を評価するのに、作品を読まなければならにゃーの? ゲージュツとかブンガクって、そんなに特別?
と追記で仰っておいでなので、「作家」という言葉に特権的な何かを仮託してはいないだろうと判断できます。要するに、作家と著述業を同列に、いや、主婦や会社員とも同列な単なる職業として「作家」と言う言葉を使っている、と。
さて、このエントリーには批判も寄せられております。批判の多くは、「作家」=作品で評価するべきと言う理路に載っているようです。例えばアインシュタインの「科学史に果たした業績」に対する評価が論文抜きには成立しないように、作家の「文学史に果たした業績」に対する評価は作品抜きでは為され得ない、と。正論です。私もそう思います*3。私はおかしくない、と判断する上で「作家という言葉がその人の属性そのものを指すのでなく」と条件を付けていますが、それはこの理路を正論と考えるからです。業績を業績として評価するなら、業績に向き合わなければならない。あたりまえですね。
でも、ですよ。そもそも地下猫さんは村上春樹の「文学史における評価」なんてモノを問題にしてるんでしょうかね? 自ら「理解できない」と断言なさっている作品ですよ? そこまで関心はない、と考えるのが自然じゃないですか。であるなら、そもそも村上春樹の作家性や作品に即した評価を地下猫さんが強制される理由は何でしょうか。
そもそも人を評価する軸は多くあっていい*4。作家という職業は、その人を構成する1属性にすぎない。繰り返しになりますが、その属性そのものを評価するなら、地下猫さんの評価は明らかに不当です。でもそうではなく、村上春樹その人を評価するなら、当然他の評価軸もあり得るし、その一つが政治的な行動でも一向にかまわない。
と、いうより。もとから地下猫さんは村上春樹個人を注視している訳でもないように思います。(注:誤解でした)
いみじくも、コメント欄で
「ワイドショー的な興味」だといっておこう!
◆カネも名声もある作家様が、人殺しに餌をもらって尻尾をふって帰ってくるかどうか
僕の興味の焦点はそのあたり
こう仰っておいでですが(注:以下の段落は誤解でした。むしろ、政治的中立性が売りの作家が政治的状況に晒されることに対する「ワイドショー的興味」だったらしいです。)、であるなら、村上春樹であることに必然性はハナからなかったことになります。作家や文学賞、イスラエルである必然性すらない。例えば、中田が某圧政で有名な独裁国家のサッカー協会から賞を貰った、と言う話でも、「ナカタのサッカーは見たこともないし理解できにゃーので、僕にとってナカタというサッカー選手の判断は社会的・人道的なエピソードに依存せざるをえにゃーな。僕は1人の愚かな大衆として、その社会的な言動でサッカー選手を評価するつもりですにゃ」と入れ替えて書くことは可能だし、そうしたでしょう。
要するに。地下猫さんにとって村上春樹は「著名人」だった、ということです。(注:ここも誤解。それなりに注目して要らしたらしいです)
では、著名人を「ワイドショー的な興味」で評価する事は不当なことでしょうか。
私は、不当も何も、そんなことは皆、当たり前にやっていることだと思っています。著名人は、著名人である限り人々に様々な角度から評価され続ける。サラリーマンが立ち食いそばを手繰っても誰も何とも思わないでしょうが、麻生太郎がやったらその行為は何らかの形で評価され得ます。私が「忠犬ディーディ」を買ってにやにやしてたって誰も何とも思わないで欲しいものですが、麻生太郎が「ローゼンメイデン」持ってたら、そら何らかの評価は受けるでしょう。良いも悪いもない。人は何らかの評価をしないではいられない存在なんです。
だから。同じく愚かな大衆の一人として(注:思いっきり乗っかってしまいましたが、以下のレトリックは撤回なされました。そう言えば地下猫さんは昔、「大衆の一人というゲロ臭いポジショントーク」と仰っておいででしたね。)、
僕は1人の愚かな大衆として、その社会的な言動で作家を評価するつもりですにゃ。
僕の判断のありかたって、どっかおかしいだろか?
別におかしくない、と私は答えます。
とは言え。
実を言うと文学賞の受賞を「人殺しに餌をもらって尻尾をふって帰ってくるかどうか」こう見ることには、正当不当は別にして、違和感もありまして。
と言うのをダシに開設以来密かに狙っていたnovtan別館様にも言及しちゃいたいと思います。大切なのは勢いです。
政治的表明を強いられること
イスラエルから賞をもらったら、それを受賞するか否かを決め、理由を述べることで必ず政治的表明をしなければならない。沈黙は中立ではない。暗黙の肯定だ。
なんていわれるとしんどいなあ。逆パワハラみたいな?日ごろコメンテーターとしてこういった発言をしていた上で、たとえばそれとまったく正反対の行動をとるようなことには説明はいると思うんだけど。
この考えには共感します。
貰えるモノは貰っておこう、と言う人もいるでしょうし、賞は辞退しない、と言うことを自らルールとしている人もいるでしょう。素直に、評価されて嬉しい、と言う人も当然いる。
受賞することで政治的に行動を評価されるのは仕方のないことだし、それは著名人の宿命でもある。しかし、結局の所その視線がその人にとってどれだけの重みがあるかどうかは、価値観の違いに収斂される問題でもある。
政治的表明をすることが生きがいの人にしてみれば他人が政治的表明をしないことなんて許されるべきではないと思うのかもしれないけれど。
「政治的にあること」は個人によって重みが違います。何か行為をしたんならともかく、何もしなかったことを持ってその人を評価するのは、少々行き過ぎな気もします。沈黙が、時に雄弁であり得るのが政治であるとしても。沈黙が、彼らの非道をあるいは後押しするのであるにしても。
いずれにせよ、
立場を明らかにせよ、じゃなくて、俺が考える正しい行動をせよ、ってだけだよね。
そう言う批判は、論外ですよね。
追記 02/02
地下猫さんの所で再追記されました。
我々にとって文学とは、生きるための価値を求める一手段に過ぎない。このことは、しかし決して文学や芸術を我々が軽視しているということにはならぬのである。我々が多少とも信頼がおけると思っている作家、詩人は、いずれも文学を第二義的なものとして取扱っているのである」
鮎川信夫 「『荒地』について」より
僕はブンガクやらゲージュツやらを軽視していにゃーがゆえに、それは第二義的なものだといいたいだけのことですにゃ。
相変わらずこちらの予想より一歩踏み込まれています。これだから侮れません。
「ブンガクやらゲージュツ」が二義的なものであるなら、作家・芸術家を評価する際にその人の作家・芸術家である側面、この場合作品は、当然二義的に取り扱われる。じゃあ何をもって評価するかというと、それは当然振る舞い、まあ顔や佇まいでも良いでしょうが、当たり前の評価軸を持って評価為される。他の職業の人が対象となった時と評価軸がかわったりはしない、むしろ、変えてはならない、という宣言のようです。作家だろうが芸術家だろうが「ブンガクやらゲージュツ」の属性を評価のメインに据えない、ということですね。
え〜と、要するに……。
私のエントリーの解釈は、正しく的を射抜いていた、ってことで、いい、んでしょうかね?
やっぱり、修行がたりなかったかなぁ。
再追記02/03
地下猫さんの所で追加エントリーが。
これは……ちゃぶ台返し?
村上春樹だから注目している可能性が。だとしたらこのエントリーって一体……。
直接聞いた方が早いかな。
最後の追記 02/04 18:30
聞いてきました。
ベースとして、イノキでもハルキでも同じ評価軸を持ちたいとは思っていますにゃ。
ただ、わざわざブログのエントリとしてたてている以上、特別な興味があるということを認めにゃーわけにはいかにゃーですね。村上朝日堂のエッセイは僕も愛読していたクチなんだけど、その小説作品と受容のあり方については、いろいろと含むところがあったというのが正直なところですにゃ。
思わぬコメント欄降臨!もありましたし、やり取りの結果、だいぶ理解が進んだようです。理解してから書くのが普通ですが。
取り敢えず、判明したのは以下の点です。
1 ちゃぶ台返しではない。地下猫さんの論旨は一貫している。
2 レトリック(特に、自分を大衆の立場におくというポジショントーク)は撤回
3 「ムラカミハルキだから注目している、という側面は確かにありますにゃ」
つまり、地下猫さんの先のエントリーから一般論しか引き出せなかったために独自の文学観・政治観に届かなかった、という事だと思います。具体的に言うと、上記のエントリーでは「著名人が政治的に評価される事」を地下猫さんのエントリーを通して論じたのですが、地下猫さんはもう少し文学的にアクティブに村上春樹を評価しているし、より積極的な関心を村上春樹に抱いておられる、ということです。
要するに、前提が間違っていた、と言うことですね。
さて、このエントリーですがどうしましょう。ほとんどアネハブランドな構造的欠陥を抱えていますが、改めてエントリーを立て直すのはともかく、いまさら書き直すのは情報連結を解除して再構成するくらい手間が掛かります。ですので、この際補修で乗り越えようと思います。改めて読み直してみましたが、上記のエントリーは一般論としては成立しているようにも読めないことはないかもしれません。巻頭に警告を入れた上で注釈をつけ、乗り切りたいと思いますので皆様どうかよしなにお願いしますねあしからず。
今回の教訓。書いてないことは読まない。*5
おまけに追記
エントリー上がりました!
文学賞と政治性
個人的なわけに寄り添う文学
皆様、大変お騒がせしました。