個人的なわけに寄り添う文学

 昨日の、というか色々続き。地下生活者の手遊び様のエントリームラカミハルキという作家への僕の判断が依存するものおよび非政治の政治性とムラカミハルキに関して思った事と私なりの理解。なお、sk-44様の地を這う難破船のエントリーにも多くを委ねています。昨日のエントリーにはリンク張らなくて良いですよね?
 さて、昨日は主に文学賞を政治的に判断することの是非について書いてきました。結論としては、是非も何も我々は皆、既に政治的なステージに乗っていて、逃げ場はない、というものです。この視点には村上春樹でなくてはならない必然が非常に薄い。では、村上春樹エルサレム賞に特有な、あるいは彼の文学が必然な視点とはどう言ったモノか。
 以下は、地下猫さんの興味深い指摘を、地を這う難破船様を手掛かりにしながら私なりに理解していこうとする試みです。※予め断っておきますが、地を這う難破船様は論を積み上げていって主張を組み上げるタイプの論考をなさっておいでなので、今回私のかなり恣意的な引用でもって誤解されては申し訳ないです。その色んな意味でのすごさを実感なさるためにも、未読の方は是非リンクより全文をお読み下さい。名文です。

無徴に受容される文学

 「非政治の政治性とムラカミハルキ」において、地下猫さんは次のように書いています。

* 文学・芸術を理由にした非政治というのは、実はとても政治的であるということ

投票に行か【ない】ことは、政治的に大きな意味を持つことだにゃ。これは誰でもわかるよにゃ。つまり、政治的で【ない】ことを肯定してくれるような魅力的な文学作品や芸術は、とても政治的であることになりますにゃ。

非政治性というのは現状維持に手を貸すことにたいていなるわけで、反体制が青臭くて暑苦しいものであるのなら、カッコいい非政治というのはその実はえらく生臭く老かいなシロモノですにゃ。僕にとっては、ムラカミハルキってのは政治的にすぎて読めなかったということですにゃ。
この非政治の政治性というものを、このエントリでは【無徴】というコトバで言い表していますにゃ。ムラカミハルキの文学ってのは、NOBODYに受容された文学なのではにゃーのかと思うんだけど、これはまあ読むのを投げ出した僕が言っても説得力はにゃーんだけどな。

 「このエントリ」とはこのエントリーです。【無徴】に関する所だけ引用します。

こむつかしい ことばで「有徴(ゆうちょう)」っていいますね。医者にたいして、女医という。文学にたいして、女流文学という。医者は「無徴(むちょう)」で、女医は有徴です。「しるしがついている」ってことです。「ふだが ついている」と いっても いいですよ。無徴のほうは、特徴がないと いいますか、それが標準といいますか、「余分なラベルがついていない」。
中略
こういうのをね、「だれでも ない ひと(ノーバディ)」って いうのです。自分が だれであるのかを 意識せずに いられる ひと。アイデンティティからの自由。これって特権なんですよ。
中略
こういった 「だれでもない」立場から 名前をもつ だれかを 非難するのは、とても かんたんなことです。だって、自分は だれでもないという安全地帯に 身を おいているのですから。属性が ないという権力! 属性からの自由という権力! なんという安全圏!

だれでも ない あなたへ(ベジタリアンには名前がある。では、あなたは?)。 - hituziのブログじゃがーより

 地下猫さんによると。あるいは村上春樹を受容しているかもしれない無徴、NOBODYとは、「カッコいい非政治」で「余分なラベルがついていない」「だれでもないという安全地帯に身をおいている」人々であるようです。そんな人達が受け入れる文学とはどういうものか。少なくともプロレタリアート文学ではなさそうですが。
 この点について、重要な示唆を含んでいるかもしれない記述を見つけました。地を這う難破船様のJAM補足しますが、このエントリーはその前の「隠喩としてのガザ」というエントリーの続きですので、併せて読むと理解の助けになるかもしれません。長いですけど*1。それとmojimojiさんとのやり取り、応答エントリーである事にもご留意下さい。

「他者」と他者が存在する世界に対する断念から発する文学的想像力、ということでしょう。世界の凸凹を「やれやれ」という個人の主観的な断念において均してしまう文学的想像力ということでしょう。搾取構造や政治的抑圧という世界の凸凹を個人の主観的な剥奪感において塗り潰してしまう文学的想像力ということでしょう。搾取構造や政治的抑圧という世界の凸凹が個人の主観的な剥奪感へとパラフレーズされ「個人における自由と自律の剥奪」として普遍的に指し示される文学的想像力のことでしょう。

つまり、「他者」と他者が存在する世界に対する断念を前提に、個人の主観的な剥奪感に訴求することにおいて搾取構造や政治的抑圧という世界の凸凹を隠蔽するべく機能する文学的想像力でさえあるでしょう。

 エルサレム賞の足下で今実際に行われている「自由と自律の剥奪」について、具体に指摘し得ない「文学的想像力」とは一体何だ? ――上記の引用は、その問いに対する答えです。
 「世界の凸凹」これはまさに有徴、タグそのものでもあります。ここで言う「文学的想像力」はそれを「主観的な断念において」均してしまう。「主観的な剥奪感へとパラフレーズされ「個人における自由と自律の剥奪」として普遍的に指し示される」結果、世界の凸凹は個人に還元され隠蔽される。
 これこそが。この「世界の凸凹を隠蔽するべく機能する文学的想像力」こそが、NOBODYに受容された文学に必要なものではないでしょうか。
 そして、もうお気づきでしょうが。この文の後にはこう続きます。

村上春樹の文学は、そのように世界を変えました。

 上記の文学的想像力とは、他でもない村上春樹の作家性に根ざす、少なくともsk-44さんはそう主張しています。より端的にこうも仰っておいです。「隠喩としてのガザ」より。

村上春樹の文学は、まさに「自由と自律を剥奪された人々」を、現代文明社会を舞台にスノッブな意匠を用いて描いてきたからです。スノッブな意匠は、作家にとって必然でした。現代文明社会に生きることが「自由と自律を剥奪される」ことであることを、つまり私たちは曳かれ者であることを、作家は描いてきたからです。

 曳かれ者であるのは、あくまで「私たち」です。誰でもない私たちが曳かれ者であることを、何でもない「スノッブな意匠」で描いたのが、村上春樹である、と。
 さらに、村上春樹に代表されるグローバルに受容された文学の機能をこう表現します。少し長いですが引用します。

世界のどこにも存在しない場所を指し示すから「隠喩としての○○」なのです。それがガザであれノモンハンであれ阪神大震災であれ。だから村上春樹は神戸を描かずに「隠喩としての大震災」を描きました。もちろん、倫理的には大問題です。「固有の場所」を起点としながらも、世界のどこにも存在しない場所を指し示して「自由と自律の剥奪」を描く文学を世界の人々は求めた、ということです。なぜなら、シュミットの論理を借りれば友も敵もない世界を私たちは自らの剥奪感を贖うために想像力において求めるからです。少なくとも、それが文学の機能と村上春樹は考えています。

想像力に基づく「剥奪感の贖い」を、普通の言葉で癒しと言います。村上春樹同様世界的に読まれる吉本ばななの文学がその典型です。私も毎週『夏目友人帳』見て癒されまくっています。私たちは想像力において「他者」を求めないということです。「敵のない世界」ではありません。「友さえない世界」です。私たちはそれを癒しのために想像力において求める。国境を越えて、グローバルに、資本主義に支えられて。

 無徴であること。「他者」を求めないということ。敵のない、友さえない世界を求めているということ。これらは同じ行為の様に思えます。
 無徴に受容される文学が無徴である必然性は、あるいは無いかもしれません。ただ、村上春樹の文学がひどく無徴的である、と言うことは言えそうです。言い換えるなら、ひどく非政治的である、ということでもあります。もっとも、

そのような文学的想像力がクソであるなら、政治的にはそうでしょう、と頷くよりほかありません。石原慎太郎を見るまでもなく、文学的想像力は時に政治的にはクソでしかないものです。

 このお言葉は、村上春樹に限らず文学的想像力、むしろ「文学」と政治との断裂を示唆するものです。この点については後段に回します。
 

 以前にも書きましたが私は『TVピープル』一冊しか読んでいませんので「読まずに批評」する(読んでないからしない)側の人間なんですが、このsk-44さんの記述を信用するなら(そして信用していますが)「ムラカミハルキの文学ってのは、NOBODYに受容された文学なのではにゃーのかと思うんだけど」そう仰る地下猫さんの推測は正しく的を射抜いていたんではないか、とそう思います。

文学を第二義的なものとして取扱うこと

説得力なしついでにもう少しいうと、ムラカミハルキはけっして芸術至上主義の作家ではにゃーだろう。先日のエントリで引用した鮎川信夫の言葉によると「文学を第二義的なものとして取扱っている」作家なのではにゃーだろうか。
この状況は、ムラカミハルキが何を第一義的なものと考えているかを明らかにするでしょうにゃ。

 「先日のエントリで引用した鮎川信夫の言葉」の部分を引用します。

我々にとって文学とは、生きるための価値を求める一手段に過ぎない。このことは、しかし決して文学や芸術を我々が軽視しているということにはならぬのである。我々が多少とも信頼がおけると思っている作家、詩人は、いずれも文学を第二義的なものとして取扱っているのである

鮎川信夫 「『荒地』について」より

僕はブンガクやらゲージュツやらを軽視していにゃーがゆえに、それは第二義的なものだといいたいだけのことですにゃ。

 私は最初、これは地下猫さん独特の芸術観――多分に鮎川信夫の影響を受けた――なのだろう、と思っていました。いわば感性の問題であって、共有できない感覚的なものだろうと。
 言い換えるなら、要するに理解できなかった、ということです。
 地下猫さんや鮎川信夫の言を疑う訳ではありません(信じてますとも!)、むしろ、具体的に名前を挙げて検証すれば、ナルホド確かに、と頷かざるを得ない。夏目漱石しかり、宮沢賢治しかり。ここで田中康夫石原慎太郎村上龍の名前を挙げればまた別な角度からの感想も持ちますが。
 しかし、現実に当てはまることと納得がいくことは別の話です。良く当てはまる以上何らかの核心を突いているのだろうけど、その核心部分が何だかわからないから気持ち悪い、とそういうことです。
 ただ、無徴と村上春樹に関して考察していく段階でsk-44さんの主張を読んでいるうち、何となくですが形として見えてきたようにも思います。ので、思考整理のためにもそれについて書こうと思います。

「飢えた子の前で文学は可能か」という問いに対して、かつて渋谷陽一はこう返答しました「自殺を考えている人間の前で山盛りの饅頭は可能か」と。つまり、飢えた子の前で文学は不可能、しかし自殺を考えている人間の前で可能、それでなにか問題でも? ということです。
(中略)
「飢えた子の前で文学は不可能、しかし自殺を考えている人間の前で可能」という認識は文学に用がある者にとって最低限の前提であるでしょう。「飢えた子の前で文学は不可能」はシニシズムではありません。それは単なる資本主義に対する事実認識です。

 文学の限界、というより領域、守備範囲の話のようです。上でも触れましたが、文学と政治の間には明らかな領域の違いがあります。政治的にクソでしかないものでも価値を持つのが文学です。それをsk-44さんは「飢えた子の前で文学は不可能、しかし自殺を考えている人間の前で可能」と表現しています。そして、それは「文学に用がある者にとって最低限の前提」なのだといいます。
 「文学とは、生きるための価値を求める一手段に過ぎない」そう断じて、第二義的なものと取り扱う精神と、この守備範囲の話はどこか通底しているように感じます。「このことは、しかし決して文学や芸術を我々が軽視しているということにはならぬのである」飢えた子の前で不可能であることは、文学を貶めることにはなりません。

世界に対して文学は無力であるからこそ、私たちは政治的な意見を持ちそれを然るべきときに表明しなければならない。空気として存在する政治を「政治」として顕在化させなければ、「固有の政治的に抑圧された人々」を、たとえばイスラエルという権力と暴力から守ることはできない。言うまでもなく「空気として存在する政治を「政治」として顕在化させること」は歴史的にも原理的にも文学の使命ではありません。シュミットに拠るなら、政治の使命です。

 飢えた子の前に山盛りの饅頭がない事は政治の問題であって、文学の問題ではない、と。
 「空気として存在する政治を「政治」として顕在化させる」ことは、上述した「世界の凸凹を隠蔽するべく機能する文学的想像力」と真逆のアプローチと言えます。つまり、政治と文学はやはり領域が違うということです。

「飢えた子の前で文学は不可能」という資本主義に対する事実認識を欠いて「自殺を考えている人間の前で可能」と文学の価値を掲げるナイーブかカマトトを、シニシズムとしてソンタグは唾棄しました。付け加えると、文学の価値と同じものとして個人の自由と自律の価値を掲げるナイーブかカマトトについても。

 この記述は、見ようによっては芸術至上主義に対する非難とも受け取ることができますね。
 

 どうでしょうか。まだまだ曖昧ですが、ぼんやりと形をとってきたようも思うのですが。
 「この状況は、ムラカミハルキが何を第一義的なものと考えているかを明らかにするでしょうにゃ」そうwktkする地下猫さんは第一義的に扱うそのものをまるっと【個人的なわけ】と表現しています。

ついでに、鮎川の詩の一節を引用しておきましょうかにゃ

『あらゆる行為から

一つのものを選ぼうとするとき

最悪のものを選んでしまうことには

いつも個人的なわけがあるのだ

だから純潔を汚すことだって

洗濯したてのシャツをよごすほどにも

心を悩ますことはないのだ

教授にとっての深渕が

淫売婦には浅瀬ほどにも見えなかったりするのだ

ポケットのマッチひとつにだって

ちぎれたボタンの穴にだって

いつも個人的なわけがあるのだ』

「橋上の人」より

ムラカミハルキの【個人的なわけ】に注目していますにゃー。

 文学を第二義的に扱うということは、文学を「生きるための価値を求める一手段に過ぎない」とみなすことです。要するに、全面的に文学に依存してはいけない。また、「生きるための価値を求める」以外の領域ではそもそも使えない。
 選択は【個人的なわけ】によって為されます。恐らくは共有も普遍化もできない自分だけの理由によって、人は何を第一義として生きていくかを選択する。 
 つまり。文学とは【個人的なわけ】に寄り添いながら、共に「生きるための価値を求める手段」である、そう言えるんじゃないでしょうか。
 

 人は皆、個人的なわけによって選択しています。「世界と他者を描くことに対する原理的な断念から発した文学」が村上春樹の文学なら、村上春樹はそのことを誰よりも理解している。
 なるほど。私も2月15日*2が楽しみになって来ました。
 追記 2009/02/16
 受賞講演についてエントリーを上げました村上春樹が寄りそうものコチラも併せてどうぞ。

*1:どちらのエントリーもsk-44さんにしては短い(!?)んですけどね。読みやすい文体ですので長さを全く感じさせ……いややっぱり長いかな

*2:Wikipediaによる。どっこも報道してないのね。