村上春樹が寄りそうもの
当ブログでも何回か取り上げましたが(うち一回は恐らく最長記録。個人的なわけに寄り添う文学を参照、っていうかぜひ読んで下さい)、エルサレム賞の贈与が15日、エルサレムにて行われた模様です。講演の要旨がコチラに載っていました。以下、断り無い限りここからの引用です。
一、イスラエルの(パレスチナ自治区)ガザ攻撃では多くの非武装市民を含む1000人以上が命を落とした。受賞に来ることで、圧倒的な軍事力を使う政策を支持する印象を与えかねないと思ったが、欠席して何も言わないより話すことを選んだ。
一、わたしが小説を書くとき常に心に留めているのは、高くて固い壁と、それにぶつかって壊れる卵のことだ。どちらが正しいか歴史が決めるにしても、わたしは常に卵の側に立つ。壁の側に立つ小説家に何の価値があるだろうか。
受賞を受け講演を行った理由と、小説家としての立場の表明、ですね。「わたしは常に卵の側に立つ」この部分はasahi.comによれば具体的に「どんなに壁が正しく、どんなに卵が間違っていても、私は卵の側に立つ」と述べたそうです。
先ずガザ侵攻を明示して非難しています。その上で、欠席ではなく講演を選んだのは「メッセージを伝えるため」だとして、自身の立場を明確にしました。「私は卵の側に立つ。壁の側に立つ小説家に何の価値があるだろうか」このかなり強い言葉は、小説と小説家に対する彼の考えをハッキリと表しています。非政治的と見られていた彼にしてはかなり強い調子の非難であり、立場表明です。予想を裏切られた人も多いのではないでしょうか。私もそうですが。ただ、
一、さらに深い意味がある。わたしたち一人一人は卵であり、壊れやすい殻に入った独自の精神を持ち、壁に直面している。壁の名前は、制度である。制度はわたしたちを守るはずのものだが、時に自己増殖してわたしたちを殺し、わたしたちに他者を冷酷かつ効果的、組織的に殺させる。
一、壁はあまりに高く、強大に見えてわたしたちは希望を失いがちだ。しかし、わたしたち一人一人は、制度にはない、生きた精神を持っている。制度がわたしたちを利用し、増殖するのを許してはならない。制度がわたしたちをつくったのでなく、わたしたちが制度をつくったのだ
この講演の基調となっている物は、社会よりも個人を優先する彼独特の世界観であるように思います。昔読んだ彼のエッセイ(私は村上春樹はエッセイしか読んでいません)に、編集者の「上に相談して」とか「会社の意向が」という表現が気に入らない、という話がありました。単に無責任な担当のことかと思ったらそうではなく、そもそも作家―編集者としての関わりそのものがうまくない、個人―個人の関係でなくては信頼ある関係は築けない、と言う結論でした。ビジネスだろうが何だろうが「自分」というものがいない人とはコミュニケーションできない……この辺りの価値観が、上記の制度の話に繋がる様に思います。
さて。この講演を読んで最初に想起したのは『詭弁論理学』の良く引用される有名な一説です。
いかに力強い言葉で説得されようと、
「だから、官憲も婦女子も、無差別に殺せ」
というのが結論であれば、断然はねつけるだけの理性は残されなければならない。「あなたの考え方には、ついていけません」
反論はこれで十分である。
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エルサレム賞とは「社会における個人の自由」に貢献した文学者に贈られるのだそうです。この講演に現れる彼の文学観を見る限り、村上春樹の文学とはまさに「社会における個人の自由」をメインテーマに据えていると言えます。
村上春樹はエルサレム賞に相応しい作家であり、そして、今回の講演は彼にしかできないGJだったのではないか。私はそう思います。
さて、最近言葉についてよく考えるんですがと言う訳で以下は駄文。上もそうだとか言ったら三日三晩泣いてやる。
引用先にこんなブクマが付いてました。
あいかわらず嫌な野郎だ。 2009/02/16
この文章、恐らくツンデレですが、このままでは「単なる不快感の表明」ともとられてしまいますね。
そこで、一部を改良してみました。
チッ……あいかわらず嫌な野郎だぜ。
どうでしょうか? 大分印象が変わったと思うんですが。
ケッ、嫌な野郎だぜ。……あいつは全然、変わってねぇ。
こうなると、何だか年輪さえ感じさせますね。
ふふっ……アンタ、あいかわらずイヤな奴ね
呼ばれてみたいです。
ふええっ、どうしていつもそんなヤな事ばかりするんですかぁ!
…………色々とごめんなさい。
要するに、言葉をうまく使うのは難しい、と言う話でした。