ニセ科学を批判し、対策する。

 追記2009/05/24
 一ヶ所とんでもない誤表記が。いや、メリットの3を否定形にし忘れてたんですが、これじゃなんかαブロガーに批判される事がメリットみたいですね。なんという超攻撃的主張……。と言う訳で直しました。pollyannaさん*1、kilreyさん、御指摘ありがとうございました。


 前回、私は今ニセ科学「批判」ではなくニセ科学「対策」と言う言葉を使っていると告白しましたが、って言うかまた総タイトル忘れてる。脱字も三ヶ所あったし、そういやリハビリ中でしたね。頭に違和感を感じたら勇気を出して登板回避と言うモノでしょうが、後がつかえてるので(ネタ鮮度的な意味で)宿題をさっさと済ませてしまおうと思います。

前回の復習:「ニセ科学対策」の利点

 ニセ科学批判、と呼称されていた活動をニセ科学対策に呼び変える事には、ザッと考えて以下のメリットがあります。


 1、目的に合致している。
   批判自体が目的の方は、いても極少数派でしょう。
 2、「ニセ」が社会規範に反しているのは明らか。批判するのは当然で括りに意味が無い。
   ニセ*批判は、いわゆる腹痛痛い、と言う事。
 3、無用な批判を呼び込まない。
   批判行為それ自体を快く思わない方の琴線に触れます。
 4、(1に関連して)活動の意義をアピールできる
   「ああ、ニセ科学に対策してるのね」とすぐにわかります。
 5、党派性を勘ぐられない。
   「対策」はより具体的な行動なので、個別の十一人各自が独自に行っていると説明しやすい。
 、(3に関連して?)なんか、語感が良い。
   良い。それに批判された時、「批判」の文字を一つ少なくできます。例:ニセ科学対策批判批判。


 私的には断然61が決断の根拠となっています。というか即断の。コレについては最後に。
 さらに、以下は実際に一月ほど使ってみた感想ですが。批判以外の活動、例えばリスクベネフィットや科学知識そのものをタギングする際、「対策」という言葉はとても便利です。また、ニセ科学の総論的エントリー、ニセ科学の特徴や構造を解き明かすようなエントリーに対し、[ニセ科学]とタグ付けするか[ニセ科学批判]とタグるか今までは結構悩んでいたんですが、今ではさほど悩まず[ニセ科学対策]と付けられます。[ニセ科学]タグを発信者に限定する事ができて結構便利です(以上はアンテナとはてなブックマークのお話です。まだ編集してないので表記揺れがカオスってますが)。
 総じて、私としては大変快適にこの言葉を使わせて頂いております。

括られるモノ。そして者。

 さて。前のエントリーでも最後に触れましたが、とはいえ直ちに批判と言う言葉から乗り換えてしまえ、とは言い難いと感じております。実際、複数の尊敬に値する「ニセ科学批判者」が態度を保留されておいでです。
 理由は人それぞれでしょうし、まして私は諸手を挙げて歓迎!なので上手く言語化できないのですが。恐らく、対策と言ってもネットで実際に行われているのは実質批判である事と、その批判活動そのものは特に悪い事ではない、という判断が背景にあるのでしょう。また、「ニセ科学批判には実体が無い」という言明にある種の違和感を感じられている事もあるように思います。
 前のエントリーに頂いた黒猫亭さんのコメントを引用します。

ニセ科学批判」と謂う括りに関する議論について判断を留保しているのは、まず「括り自体は必要かな」と思っていると謂うことがあります。それはニセ科学批判と呼ばれる言説には従来の議論の蓄積があるからで、そこから得られた知見も多い。その蓄積や知見を踏まえて議論が深まるには、やはりその言説の総体を指示する括りがあったほうが好いだろう、と。
(中略)
言い換えと謂うのは、戦略としては「改善」ではなく並列的な遷移になっていくと思うんです。
たとえば「ニセ科学対策」ならどうかと言うと、「対策」と謂う言葉には前提として「即効的な実効」が想定されていますけれど、実質的には言論を通じた批判がメインですから、「実効なんてないじゃないか」みたいな話にもなりかねません。何というか、「即効的な実効を約束する」みたいなニュアンスで取られかねないのではないか、と。

apjさんの場合は、言論だけじゃなくてもっと直接的な闘争手段でニセ科学に対峙していますから「対策」でしっくりくるんですが、たとえばわれわれはもう少し遠回りで間接的な成果を信じて、ニセ科学の言説を批判する議論を繰り返していると謂う側面はあると思うんですね。

 もう一つ。この件について興味深いエントリーが上がっています。
「ニセ科学批判」という言葉: あぶすとらくつ

ニセ科学批判は活動内容も主張の内容もバラバラですが,社会活動としてみた時には得られる効果は共通であって「ニセ科学批判の目的はニセ科学の蔓延を防止する,ニセ科学の影響力を失わせることです」と言ってしまえるんではないか,という認識が私のなかにあるみたいです(人ごとみたいな書き方でスミマセン。断言できるほどの確信はないので)。

 なので私が「ニセ科学批判の活動を支持しています」と言う時には,あんまり迷いとかないし,むしろ私の思いに良く合致する表現なんですよね。

 「ニセ科学批判」と言う括りは機能している、ということですね。
 また、このエントリーのコメント欄(必見!です。や、最初が私だから言う訳じゃなく)で、poohさんが

経緯、と云うような部分について云うと、きくちさんやapjさんのアカデミシャンとしての立ち位置からのニセ科学に対する批判があって(その流れのなかで「ニセ科学」と云う言葉が選択されて)、で時間軸的に重なる時期に(こちらは直接接していないんですが)lets_skepticさんなんかの直接対話によるニセ科学的言説に対する対峙、みたいなものがあったと思うんですよ。

で、たぶんTAKESANさんなんかが嚆矢かと思うんですが、それらの視野からの言説で(目配りはあっても、発話として)いくらか手薄になっている部分への言及、と云う、若干メタ的な視点からのニセ科学に対する議論、と云うのが生じてきます。
たぶんぼくなんかもこの流れのなかにいて。ぼくははっきりと、自分の議論の目的を補完的なものとして当初から意識しています。ぼくの議論に果実があれば、それを利用してほしい、みたいに(とは云えご存知の通りぼくは未だに周辺部でごちゃごちゃ云ってるだけで、貢献らしい貢献はできていないんですけど)。

で、ぼくみたいな営為を括るには、「ニセ科学批判」と云う用語はずいぶん便利ではあるんですよね。

 この事は私のとこのコメント欄でも仰っておいでで、

例えばぼくは、ニセ科学の周辺・背景に存在すると思われる問題を(やや自然科学的視野から外れた視点から)ピックアップして、そこについて議論することを通じて有益かもしれない思考・議論の材料を提供する、と云うことをわりあい意識しておこなっています。で、こう云う営為を表現するのに、「批判」と云ういいまわしはわりと的確だった、と思ったりもするんですよね。

 個別に論点を指摘するに止まらず、一歩引いて全体を見る、あるいは周辺を背景込みで論じる、となれば確かに「啓蒙」よりむしろ「批判」の方が相応しいように感じます。
 私の含蓄ある黄金のコメントこれらのコメントを受け、ハブハンさんは

私が「ニセ科学批判の活動を支持しています」と言う時には、まさに「批判」をこそ支持しているんですよね。そこは私がやろうとしてもできない部分ですし、潜在的に大きなリスクのある部分でもありますから,それをしていただけていることが嬉しいですし,支持したい。
(中略)
私が「ニセ科学批判」と言うときは、「ニセ科学批判」批判に対応(対抗)する言葉として持ち出すのであって、「ニセ科学」に対応させているわけではない、のかも。そうすると、他の方たちとは違う捉え方になっている可能性がありそうですね。
 確かにこれらの言葉は私の中で時系列に乗っていないモノですので,その辺の意識の有る無しが違いにつながっているところはあるかも,ですね。

 apjさんは「ニセ科学批判」及び「ニセ科学批判」批判という言葉が生まれたことそのものが失当だというお考えが根幹に有って、一方の私はそれが既に存在していることは前提にした上で、その内容の不当性を考えているから、そこで違いが出てくる

 この部分の御指摘、と言いますか独白は、問題(?)のかなり中核の部分ではないでしょうか。
 apjさんは一貫して現場、最前線でニセ科学に「対策」してこられた方で、だからこそ後から批判と括られる事に違和感を感じられたのでしょうし、対策と言う言葉に躊躇無かったんでしょうが。後から来た私やハブハンさんにとっては、poohさんの「批判活動」も含め、その活動それ自体がコミットに値する、そう決断させる「活動」でした。そして、その活動は大半が「批判による対策」だったので「ニセ科学批判」と呼ばれていた、という訳です。
 対策されている方にとっては、あるのは目の前にある一つ一つのニセ科学であり、「ニセ科学批判」はその対策の集合なんでしょうが、その活動に賛同しよう、コミットしようと思う人間にとって、その対象が個々の対策の集合とキレイには割り切れないように思います。もっと大づかみに一般化して「ニセ科学に対抗する活動」と捉えているのではないでしょうか。と言うか、私はそうですと言う話なんですが。
 重要な観点は。コレは前のエントリーでお二人から頂いたコメントなんですが

poohさん
考えてみると「ニセ科学を批判しているひと」はいても、「ニセ科学批判をしているひと」はいない。いないけどどうもそう云うひとがいるように見られているようだ、と云うあたりで、なんかおかしい、みたいな。その意味で、apjさんの「ニセ科学批判と云う言葉には実体がない」と云う意見に賛同している部分があるわけです。


黒猫亭さん
前述の通り「ニセ科学批判」と謂うタームそれ自体にはそれほど抵抗はないんですが、「ニセ科学批判者」と謂うのはやっぱり違うかな、と思います。ニセ科学批判に関して何らかの括りが必要だとしたら、それは言説のレベルの話で、人的な集団の括りとして括るのはちょっと変だな、とは思います。

大本のapjさんの論に基づくなら、ニセ科学批判の本質は「嘘はいけない」と謂う社会規範の問題なんですし、本文で挙げられているharutabeさんのご意見の通り、それは普通誰でも「嘘はいけない」と謂う批判を口にするのは当たり前のことですから、「ニセ科学批判者」と謂う人的括りにはそれこそ実体がないのではないかと思います。

 「ニセ科学批判」という活動の括りはある程度有効だし実体もあるけど、その括りを人に当てはめて「ニセ科学批判者」とすると途端におかしくなる、という認識ですね。この問題点はかなり「批判者」の間で共有されているように思います。「ニセ科学批判」と言う言葉を使わないよう心がけたり、批判批判に具体例を問いかけたりする姿勢は、おそらくこの問題に配慮しているのでしょう。

私の場合

 と言う訳で、結論はよく解りません。「懐疑主義者」「デバンガー」という括りも万能ではありませんし。ただ、少なくとも大まかな活動そのものに対しては、何らかの括りは必要であるとは思います。リンク・コミット・支持、何でも良いですが、対象に名前がないとやりづらいのは確かでしょう。知識やノウハウの蓄積という問題もありますし。
 と、これで終わっても竜頭蛇尾ですので、最後に私の個人的な理由を自分語り開陳して〆ようと思いますが竜頭蛇尾は変わりませんか。まあ、何らかの参考になれば。


 当ブログで一番最初の「ニセ科学対策」エントリーは、声を繋げることは、声を上げることと同じくらい大切。です。詳細はご自分の目でお確かめ下さいとか書いてvp二重取りを企んでも誰も見に行かないと思うので慌てて内容*2をご紹介すると、駆け出し研究者が科学のために立ち上がる方法のガイド:幻影随想にTBする、それだけの目的で上げたエントリーです。勿論、ブログを軌道に乗せる為に注目度の高い場所にTBして読者を横取りしよう、と考えた訳ではなく、本当に全然そんなつもりはなく、次の黒影さんのお言葉に感激し、それに対する一番直接的な賛同の意を示すストレートな方法を採ったまでです。

このエントリを読んでくれた人に対して、同様にアクションを起こすことを期待する。

難しく考える必要は無い。
ニセ科学に対する批判を公開することだけが、ニセ科学に対するアクションではない。

ニセ科学批判の記事を読み、その記事への賛同の意見を表明するだけでもいい。
リンクとともに一言コメントを追加するだけでも、十分意味のある行動である。
ひょっとしたらそのリンクをたどって批判の存在を知ったことで、将来騙される危険を免れる人がいるかもしれないのだから。

 このお言葉が、ニセ科学対策に踏み出す最初の一歩を後押ししました。私のニセ科学に対する行動の指針は、これが全てです。今でも変わりません。
 つまり、私が最初にコミットを決めた「ニセ科学批判」は、まさにニセ科学対策そのものだったんです。
 最終結論が個人的な理由、と言うのは本当に申し訳ないのですが。私が書き換えを即断したのは、正に私がコミットしているモノ、行動は「対策」だから、なんです。私は自分をそう規定しています。ハブハンさんが批判にコミットしているように、これは人によっても違うでしょう。
 人を一括できない理由が、ここにもあります。 

*1:そう言えば、お誕生日おめでとうございます。

*2:因みに「プレタ・マンジェ」の自然信仰批判がメイン。中国語まで駆使した力作エントリーですよ?ガン無視に近かったですが