自主規制と差別の文脈

 全ては、女子高生キムチといういかにも週刊モーニングで新連載しそうな我が目を疑う商品から始まります。
 

 夕刻。珍しく時間が取れたので、さて先ずは駆け付け一句はてなハイクを開いた所、さる高踏*1なお題が目に飛び込んできました。
 

 お題:清楚な女子高生に踏まれ隊
 

 日頃女子高生から頂けるメール目当てで七面倒臭いニセ科学ナンチャラにわざわざコミットしている私としては(本音濃度:レメディくらい)、至高の存在である女子高生(本気度:長生きするBMI値くらい)を「清楚」などと限定する性根が許せません。女子で高校生なだけで十分尊いだろJK。
 と言う訳で、一句。

清楚な女子高生に踏まれ隊


別に清楚でなくても。
この際キムチでも。

 簡にして迸るパトスを感じさせる、我ながら良い句です。ええ、私のハイクこんなんばっかですが何か?
 これで良し、と投稿ボタンを押そうとして。ハタと気が付きました。
 この句の二段目。この「キムチ」というのは、言うまでもないですが上で説明している女子高生キムチを意識しています。が、この文脈だとあるいは違った意味に捉えられる可能性があるのではないか?ネット上でレイシズムを煽る最悪な極一部の連中は、時にある種の蔑称として「キムチ」と使うことがあります。その文脈を知っている人が、「キムチでも。」この文章をコンパクトカメラの蔑称のように受け取る可能性に思い至ったのです。
 要するに、唐辛子の使い方に長けお肉料理に定評があってご飯の美味しい、サッカーでは良いライバルな隣国*2と「キムチ」を結んで考えるなら、この句は実に見下げ果てた人種差別的言動になってしまう。これは私にとってこの上なく不本意です。なにしろ、知性も教養も誠実さも持ち合わせていない、と評価される訳ですから。実に堪りません(性的な意味で)。
 そこで、次のように改変しました。

別に清楚でなくても。
この際、女子高生キムチでも。

 ネタとしては、やや冗長になってしまいましたが、止むを得ない所です。

 
 さて。そこここで表現の自由に関してエントリーが盛り上がってあんまり積極的に関わっていない私にさえ何度かお呼び(IDコール)がかかっている状況(YAOsanさん、sk-44さん、ありがとうございました)で、なんでまたこんな脳天ピンクな話を書いているかと言いますと。これが私が思い付く最もカジュアルな自主規制の例だからです。
 キムチと隣国が結びついていなければもちろん、結びついていたとしても、隣国を差別的に捉える文脈が存在しなければ表現を改める必要はなかったでしょう。例えばドイツ人をあしらった「女子高生ビール」があったとして(あったりして)、ビールでも、と表現することに問題は感じません。この場合でも商品ではなく国名と勘違いされる可能性は依然残りますが、そこに人種差別的な匂いを嗅ぎ付ける人は無視できるほど少ない、そう判断できます。
 差別があり、差別的言動があり、それが差別的な文脈を作る。これらの背景を考慮して、自主規制は為されました。私のハイクにおける、ですよ当然。ハイクのネタ程度の表現でも、自主規制は嫌な物です。無駄でもあります。でもこの嫌な無駄を無くす為には、差別の文脈を消去・無化する以外に良い方法は思い付きません。差別そのものを無くすか。差別以外の文脈を発展させるか。ゾーニングで文脈を限定させるか。自棄になって差別的な文脈が無視し得ないほど力を持っている現状で分かる人にだけ分かれ、と突き放すなら、時にレイシストとして後ろ指指されるハメになるでしょう。その時に釈明して回るのと最初に自主規制するのと、どちらの方が良いかは発表する媒体、受容される層や数にも依るでしょうね。

 
 以上は、何度も言いますが私のハイクにおける自主規制の例、です。当然ながら規制はこんなユルユルなものだけではありません。法による罰則付きの規制と、むしろ自重と呼ぶに相応しい私の自主規制を同列に論じることはできません。同様に、ほとんど読者のいない(読者の皆様、いつもありがとうございます)ハイク投稿と、例えば商業出版を同列に論じることはできないし、差別にしたってその構造は千差万別です。
 規制に反対と言った時、反対している規制は何なのか。その規制を避ける為に何をすればいいのか。これらは実は重要な観点であると思うのですが、規制反対派・賛成派と安易に括ってしまうと見えにくい点でもあります。今一度そこを見つめ直した方が実りある議論ができる、そう私は思います。

*1:踏むにかける高踏テクニックです

*2:私の知識はこの程度です。しかし、この事実のみでこの国は良い国だ、と断言させて貰います。