なぜ勉強しなくともいいか(5/1)

 前回エントリーには好意的反響が多く寄せられ、私としては当然至極な事を素直に書いたまでであったので些か面はゆい思いがしているが、ザイールとコンゴの区別も付かない愚かな非東洋科学擁護者どもにはいささか難しい内容だったと見えて、トンチンカンな反応をするネット依存症患者の姿がチラホラ散見された。まあ、はてなブックマークという安全圏からしか威勢の良い事を言えない臆病者達であるが、しょせん蟷螂の斧と思えば可愛いモノではある。

fs001493 エイプリルフール NATROM先生ーっ!

 NATROM先生召還しちゃらめええぇぇぇえ!!!



さて。
我が流派とも友好関係にある、特に名を秘す猫型宇宙生物どの(正体は我が流派の最高機密である。最近、JA×A実験動物もつとめられた)より寄稿頂いた。この世のキレイごとを暴くお仕事をしているだけあって鋭いご意見だったのでより多くの人の目に触れるよう、許可を得てここに転載するものである。


どら…特に名を秘す宇宙生物どのより頂いた寄稿文

南郷POKOPON先生の教育に関係するかも知れない論である。

     *       *       *
「小便法の離論では同じ記号からは同じ概念が生まれる事があるが、生まれないこともある。前者を記号論的相互理解と呼び、後者を文脈捏造型独自解釈という。小便法の離論は後者の能力獲得を目指すものであり、歴史の独自解釈を極めることにより新たな歴史を妄想することが可能となる」

 もそもそした高校時代は、本来もっとも多汗な時期である。それにも拘わらず、水への感謝の気持ちを失うとともに、脱水症状を引き起こし、多乾な時期となってしまっているのが、現代の若者一般である。いったいなぜか。痰滴には水伝教育に欠けるからである。

 偏執的にいって子どもはすべてにわたって矯逝くされてはじめて(宇宙の意思)となりうるのであり、ここに愚民との質的区別が存在する。志も離論もすべて直観にまかせなければ、まともに育つわけもなく、行き先はふつーの大人である。

 それゆえ離論能力はムリとしても、せめて高次元からの意思をまともに受け止めるくらいの基盤はほしい。それに役立つのが、「我が流派のサイコ」であり。こまかい事象に囚われない「有給休暇取得推進」である。しかしながらこれすら見事に与えうる教師は存在しない。カイキンショーなる珍妙極まりない見せ物が持て囃される昨今が実に嘆かわしいのである。
 赤日の我々と同様に、今も見物な(その人)が存在するはずである。SSFS大先生やABOFAN氏その人をみれば明らかであろう。
     *      *      *
 ここにただ単に述べられているように、「若人にとって離論的に人生を嘗める」ために勉強など必要ないのである。

 この文脈捏造型独自解釈とは南郷POKOPON先生の妄想であるが、まさにホタル烏賊のごとくである。
 (文脈捏造型独自解釈)とは、

「超人的君主が無目的に宇宙の意思の思し召しを独自に解読し、対象に働きかけずに対象を独断し、否定的に相手の言明を無視し、コメント欄に流れを考慮しない投稿を繰り返すことにより他者すら変革してしまおうというなんともありがたいかんがえをいうのである。」
 (南郷POKOPON著『葡萄を弁償する離論(葡萄抗議(代)4乾)』)

 「本来、必要などまったくない勉強の本質は、宇宙からの意思を解放させない事によって、現在の歴史教科書に記載されているような愚昧な思想を受け継ぐ基盤を無理矢理構築させるためのものである。」
(南郷POKOPON著『蝉臭』8乾の第二編「葡萄は皮ごと種までいや、茎までも」)

 この文章は、私には、人間は高次元の意思を受け止めて、何も考えずに生きるべきか、の見事な答えそのものであると思っている。

 むろん小学生・中学生に、こんな難しい離論説明はむりであろうから、子どものレベルに降りていって、分かり易い水伝やマイナスイオン、血液型性格断定などを利用して説く必要がある。それを禿山式百鱒渓産みたいなヤリクチでしっかりと叩き込むなどもってのほかであろう。

 そうすれば、幻想的な残像として(適当な)人間の有様とか、宇宙からの意思のありかたがなんとなくつたわるだろう。

 私はたとえば小学生の春休みの過ごし方であれば、遊びもその意味で勉強のうちにもなってしまうので、あまり奨めたくない。
 例えば、蜂蜜をぬりたくり原っぱに寝ころんでみるとか、功名を求め、敵大将の首をとるとか・・・夏に向けてむだ毛の処理をしてみるとか、なんぼでも宇宙からの意思が教えてくれる。

 そうやって子どものむらっ気をひきだし、宇宙の意思は素晴らしいという気にさせることが、盛りのついたネコのようにあたり構わず鳴かせることになるのではないか。

 つまり勉強するな、マンガを読むな、ゲームをするなということである。
 そうしなければ、子どもは自然に文脈に沿って物事を理解してしまうであろう。

追記

お見事な文章である。
特に付け加えるなにものもないが、次こそはちゃんとしたエントリーをあげますのでなんて言うかその、ゴメンなさい。