非科学批判ではニセ科学は撃てない

最近、ちょっと変わった立場からのニセ科学批判・批判エントリーがあげられました。
疑似科学批判・批判のまとめっぽい何か - mzsmsの雑記

まず、僕が一番初めに書いたエントリは、基本的に次の三点で構成されている:
1. ウェブで見かける疑似科学批判がやっていることは「科学」というレッテルの帰属争いだとして、それはセクショナリズムだと評した。
2. 論理実証主義者に比べて、その志は低いと評した。
3. 「臆面もなく、科学のみが真理であり、検証可能な事実のみが事実なのであると主張して、宗教や道徳を罵倒するような疑似科学批判をいちど読んでみたい」という願望を述べた。
(中略)
最後に。なんども聞かれているような気がするが、結局、疑似科学批判がどうあるべきだと僕は言っているのか? 
べつに、何も「こうあるべき」とは言ってはないし、考えてもいない。揶揄して、論理実証主義と比較し、難しい願望を述べただけ。公開されているとはいえ、誰あてに書いたわけでない日記なのだから、それで何か問題があるとは思わない。
とはいえ、疑似科学批判にはこうあって欲しい、とうのはある。それは、繰り返しているけど、できれば、なぜ実証、検証、反証というものが大切かということを説明し、少なくともそれらにコミットメントしていることを明示的に表明して、「疑似科学」批判だけではなく、「非科学」批判として通用するような枠組みを持って欲しい。

 ※「最初に書いたエントリー」は全面的に書き直され、撤回と謝罪の意が載せられています(2009/04/1419:20)。また、関連エントリーのほとんど全て(引用部を含む)に打ち消し線が引かれ、それとは別に「セクショナリズム」という言い方は撤回されました。要するに、全面的に撤回し、謝罪まで(誰に対してのモノかは今ひとつ不明ですが)しておられると言う事です。ここに明記しておきます。
 撤回と謝罪はエントリーを書き終わった時点で知ったので扱いに悩みましたが、「打ち消し線を引いた部分に書いてあった内容について、質問をいただいても結構ですし、撤回した部分について引き続き批判・非難を受けてもやむをえないとは考えています。」だそうですので上げることにします。批判が目的のエントリーではないですし。

 
 私は、mzsmsさんの主張を一言で言って「自重するな」であると読みました。mzsmsさんご自身が渇望してらっしゃる様に、そういう形で自重しないニセ科学批判者は私も存じ上げません。というか、普通ニセ科学批判に向けられるニセ科学批判・批判(個人的には批判偶数組、という言い方が気に入ってます)は「自重せい」という言い分が多い様に感じますが、「自重するな」という批判は珍しいですね。巻頭で「ちょっと変わった立場」と表した所以です。
 さて、mzsmsさんの立ち位置は一種の科学主義であろうと受け取りましたが、「論理実証主義」には詳しくないですし、「べき論を語ったつもりはない、日記で願望を述べただけ」だそうですので今回その点には立ち入りません。と言うか、名だたる論者がTB・コメントしていますし、私のブコメにも応答頂きまして(お礼が申し遅れました。丁寧な応答ありがとうございます)、しかも撤回されているエントリーに今更言及する事も躊躇われるのですが。ただ、「具体例」 - 『digital ひえたろう』 編集長の日記★雑記★備忘録。こちらのエントリーおよびコメントを拝見し、どうも相互に用語の誤解があったように感じましたのでその点だけ指摘させて頂こうと思っています。

ニセ科学疑似科学

当ブログでは一貫して「ニセ科学」という言葉を使っていますが、人によっては(様々な理由から)この言葉を採用せず、「疑似科学」あるいは「似非科学」等を使ってらっしゃいます。これらの言葉が「ニセ科学」と同じ物を指し示しているなら問題はないのですが、時として全く違う意味が付与されている場合があって、混乱を引き起こす時があります。最近ですと某αブロガーのニセ科学テストにおける「偽科学」とかですね。
 混乱を避け、対話を有意義な物にするべく、批判偶数組に対しては最初に必ず「それは具体的にどういった活動ですか?」「疑似科学という言葉を、具体的にどういう意味でお使いですか?」「ニセ科学という言葉と定義をご存じですか?」としつこい程お尋ねすることが通例となっています(そして残念ながら、そこから先に進めない方が多数いらっしゃいます)。mzsmsさんに対しても、TAKESANさんがまず最初にお尋ねしていますね(Interdisciplinary: 不明確を参照)。mzsmsさんは一貫して疑似科学という言葉をお使いですが、批判の対象はネットの疑似科学批判全般、強いて言うなら、としてこちらのページを示されました。菊池先生の「ニセ科学」入門、です。これにより、私たち読者は疑似科学ニセ科学、用語の混乱はない、と判断して対話に移行したのですが、どうやらそれは早とちりだったようです。
以下、「具体例」より。太字も引用ママ。

なんか、mzsmsさんも、finalventさんの時(「「偽科学」と「ニセ科学」?(追記あり)」)と同じく、「疑似科学批判」という語を
科学的な間違い(疑似科学)を《それは科学的に間違っている》と批判すること
や、
単なる「似非科学/非科学批判
あたりの意味で使ってそうな気がするなあ。(これらは「ニセ科学批判」とは違う)
(中略)
T-3donさん の「ニセ科学批判を限定された非科学批判だと勘違いしている」という指摘はまさに「『疑似科学批判』と『ニセ科学批判』は意味が違いますよ」という指摘なのだけれども、mzsmsさんはそれをスルーして(わざとじゃないと思うんだ)話を進めている。
mzsmsさんの返答は、T-3donさんの意図した指摘を理解したものではなく、
それは(科学に似ているが)科学ではない」という批判(=疑似科学批判)は、(科学に似ているが)という限定をつけなきゃいけない分、批判対象が限定されている。しかし限定されていてはつまらないので、「それは科学ではない」という、カッコ限定のない(科学ではないもの全てを批判対象とする)非科学批判を読んでみたいと書いたのだ」
 と、改めて文章の内容の説明をしている。
(中略)
......恐らく「勘違い」しているのは mzsmsさんではなく、私たちの方なのだ。

 私はこの論考を説得力ある物と思います。つまり、mzsmsさん言う所の「疑似科学批判」は「ニセ科学」の事ではなく、用語の混乱というより用語そのものについて誤解がある、と言うことです。コメント欄でも、

おっしゃっていることは、私が「疑似科学批判」というときは、科学を意図的に装っているかどうかはほとんど度外視して、科学に似ているその理論がそれは科学ではないと批判することを想定している。しかし、他の人が「ニセ科学批判」というときには、意図的に(少なくとも誠実さに反して)科学を装っている、その「装っている」ということ自体、あるいはその非誠実性を批判することを想定している、ということでしょうか。

 mzsmsさんはこうコメントされていますが、「ニセ科学批判」において意図や誠実さは関係ない事を鑑みるに、やはりいささか誤解があるようです。そのことが会話がうまく成立しない理由ではないでしょうか。
 

非科学批判ではニセ科学は撃てない

 ニセ科学は、いずれにせよ非科学的です。では、ニセ科学批判は非科学批判なのでしょうか?
 結論から言うと、違います。
 mzsmsさんの言うように、実証、検証、反証こそが真理であると全面に押し出し、その結果実証その他の価値を人びとが共有したとしても、ニセ科学はなくなりません。極端な話をするなら、非科学に対する科学の優越をいくら説いたところで、その理路ではニセ科学を批判すらできないでしょう
 ニセ科学とは、科学を装った科学でない物、です。つまり、外側から見れば(人によっては)科学に見える何か、がニセ科学の実態で、ニセ科学批判とはその化けの皮を剥がす行為に他なりません。apjさんが言う「ニセ科学はレッテル剥がし」とはそういうことです。
 中身ががどうあれ、皮が科学である以上、科学の価値ではニセ科学には効き目がない。私が、科学とニセ科学とは実証の価値を共有している、と表現したのはそういう意味でした。実証その他こそが真理だ、とニセ科学の連中を批判した所で「そうですね、おっしゃる通り。ウチの製品は科学的に実証されていますよ」これで終わりでしょう。あるいは「科学では解らないこともある。でも実験ではこういうデータが出てます」こう言われたらどう反論しますか?
 有効な反論は「実証などされていない」「その実験(データ)には不備がある」ですね。ここで必要な行為は、実証、検証、反証の必要性を説く事でも、それに対するコミットを表明する事でもない。それを実行する事、です。「それは科学ではない」これがニセ科学を撃つ弾丸で(残念ながら銀ではないですが)、当初mzsmsさんが物足りないと批判した方法こそが、実はニセ科学批判には最も有効な方法なのです。
 

 当然のことながら、この弾丸は最初から科学でない事を明示している宗教・道徳には全く通用しません。それこそ、だから? ですね。彼らを撃つ弾丸が何かは(またそもそも撃つ必要性があるかどうかは)私には解りません。多分無いと思っています。mzsmsさんが、論理実証主義こそその弾丸だ、と仰るならそれは一向に構いませんし、願望を抱く事も、どうぞご自由に、とすら私は言いません。誰も言わないと思いますよ。
 でも、その弾丸は、ニセ科学には効きません。mzsmsさんがなぜ、「疑似科学批判」にその役割を求めるのかは未だ解りかねますが、少なくとも私が考えるニセ科学批判においては、ニセ科学・非科学両方共に効く弾丸はなさそうですね。
 このエントリーは、実証、検証、反証こそが真理だ、こういう立場からの疑似科学批判があってもいいんじゃないか? というmzsmsさんの疑問に、私なりにお答えする意図で上げました。要するに、有効でない方法を敢えて選択する批判者はそれほどいないでしょうね、というのが結論ですが。
 蛇足です。ニセ科学批判者が、ニセ科学ニセ科学の側面だけから批判している訳ではない、と言うことは是非ご理解下さい。例えば私自身、血液型性格判断について「ニセ科学であり、また、差別でもある」と批判しました。後者は前者に関係なく批判されるべきです。なので、私も批判しました。人間として、です。