車椅子では行けない学校

 北方某国のミサイルロケットも無事成功し、将軍様におかれましては国威掲揚と科学振興、ミサイルロケット販売用のデモンストレーションが成り、まあついでのおまけに、東のどうでもいい国民の生命財産を傷つけてぐだぐだ言われなくて済んで慶賀の至りでゲスな。打ち上げなんてやってる場合か君んとこは? 
 もっとも。やってる場合かと言う言葉は実はブーメランかもしれません。先日こんなニュースがありました。車いす少女の中学入学を拒否…奈良・下市町、財政難理由に

奈良県下市町の町立小学校を今春卒業した、下半身不随で車いす生活を送る少女(12)が、入学を望んだ町立中学校の設備が不十分として、同町教委から入学を拒否され、養護学校への入学を勧められていたことがわかった。
 両親が4日、記者会見し、「小学校の友達と一緒に入学させてやりたい。普通学級の方が子供のリハビリにもいい」と訴えた。
 地方公務員の父親(51)や町によると、少女は出生時の脳性まひで下半身や右腕などが不自由。自分で車いすを使って少しなら移動できるが、通っていた同町立阿知賀小では介助員2人が付き添い、特別担任の元で学校生活を送った。
 中学入学手続きの前に、医師や教諭らでつくる町教委の諮問機関・就学指導委員会(10人)で審議。斜面に立つ町立下市中の校舎(4階建て)は階段が多く、施設のバリアフリー化は財政的に厳しいことから、下市中への就学は無理と判断、町教委は、3月27日に入学を断る連絡をした。
 両親によると、少女は「なぜ行けないのかな」と話しているといい、8日の入学式までに入学が認められない場合は、訴訟も検討するという。東奈良男町長は「命の大切さを考えればこその判断で、理解してもらいたい」と話している。

 関連してlessorさん、MarriageTheoremさんがエントリーを上げておられます。
 lessorの日記:大氷山の一角
Marriage Theorem 新居:車椅子少女の中学進学の話
私がこの件で疑問に思ったことは大体上のお二方のエントリーで言い尽くされているように思います。だから私ごときが今更言及することもないんですが。まあ、そうはいっても、このニュースには言いたい事は山ほどありまして。で、実際昨日書いたんですが、読み返してみてこりゃ少々感情的なきらいがあるなぁ、と。それにちょっと気になることが――書いている時も感じていたんですが――あったので、上げる直前に思い直して一日冷却期間を取った次第です。
 気になる所は二つありまして。一つは、件の町がいわゆる「過疎化」に晒されている小さな自治体だ、と言う点です。下市町のHPを拝見したのですが、色々見ていると何とか過疎を食い止めようと必死に努力している様子が見て取れます。やたらと完成している文化・交流センターも、長期総合計画で先ず道路・橋りょう計画が上げられているのも、恐らく人を呼び込もうとする姿勢の表れでしょう。こう言う人口が一万人に満たない(5年前で8000人足らず)上に右肩下がりで(4年で千人減少)、おまけに合併協議も不調に終わったちいさな町に多くを求めるのは流石に酷です。少なくとも、私が暮らし、学んできた市と比べると桁違いに小さな自治体ですから、自分の常識をダイレクトに適応する訳にはいかないでしょう。
 二つ目は、これは一つ目の結論部分に繋がるのですが。私の見解が実体験に根ざしている、と言う点です。ここは解りづらいと思うので、詳しく説明します。

実体験に根ざす「強い」意見

 私の「見解」は、一言で言うなら

同じようなことで教育課長からむかし相談を受けたときに「車イスで2階に上がれないなんて、体力のある中学生がいっぱいいるんだから、みんなでなんとかすればいいじゃないの。そういうのが教育なんじゃないの」と話して、結局その子は中学に通えた

 という事です。「lessorの日記」様から引用しました。
 私が通っていた学校は、別にバリアフリーでも何でもないごく普通の校舎で(まあ当時はそれこそバリアフリーの思想自体が浸透している最中で実際、在学中に建てられた新築校舎はしっかりバリアフリーでした)、階段もバッチリある、というか中学は昇降口が階段上がった先の設計でしかも5階建てだったんですが、小・中ともに車椅子の生徒も普通に通学していました階段をみんなで運び上げた記憶もあります。ってゆうか一人で持ち上げた事もありました。確かに、車椅子は中学生にはちょっと重いかもしれません。
 要するに、私には「バリアフリーなんかなくても一緒に学べる」という実体験があるんです。
 実際にできた、やってきた、と言う経験があるので、当然ながら私は今回の件で「無理だ」というベクトルでは考えられません。無意識のうちに「登校できて当たり前」というスタンスで考えています。今でもそうです。
 体験はいつだって真実です。真実に基づいた意見を疑うことは、当人にはとても難しい。また、当たり前の話ですが、論拠が「真実」しかないなら、その真実を共有しない人にとって根拠は何もない。
 この件に関しては、私の中に疑い得ない確信として、共有できるかはなはだ不安で個人的な「真実」が横たわっています。みんなで頑張って上げればいいじゃん。大体学校で一人きりって事もないだろう。車椅子とのつきあい方を学ぶよい機会だ。
 簡単なんだよ、そんなの――実際は、簡単どころの話ではないです。

という事例が紹介されていますが、平常時はともかく火事や地震など災害時の避難といった緊急事態も考慮に入れると、生徒同士の助け合い精神だけをあてにするわけにもいかないだろうと思います(というか、そういう場面まで生徒同士の助け合いをあてにするような無責任な学校だったらそれはそれで困りものではないかと)。

 上で引用した部分に対するMarriageTheoremさんのレスです。そも、過疎化が進んでいてしかも少子化な現状では、私の頃の常識は通用しないと考えた方が良いでしょう。勿論、生徒同士の助け合い意識は時代を問わず変わらない(向上している)のは当然の大前提として。
 確信が議論や認識にどんな悪影響を与えるか。私はトンデモ鑑賞ニセ科学批判にコミットする過程で*1イヤというほど目にしています。この件に関しては、私の中に確固とした確信があり、その確信は状況の違いを考えるなら、直ちにこの件に当てはめて良い物ではない。
 これが、私が件の町教委、及び町長を批判したエントリーを上げるのに躊躇する理由です。
 
 
 とは言っても。車椅子程度を受け入れられない公共施設、と言うのは困りものですよね。ちょっと怪我、病気をすれば車椅子のお世話になることなんて日常的にあるでしょうに*2。まして高齢化社会。今後車椅子の出番はますます増えるでしょう。車椅子で生活するにはコツが要りますし、車椅子生活するにもコツが必要です。そのコツを学ぶのに、共に学ぶ、と言う以上の方法はありません。これからも共に暮らしていく――時には自分が車椅子側で――んですから。この部分は、書き残すのに躊躇する必要ないですね。
 

 と、いう訳ですので。
 楽しみにしていた方には大変申し訳ないのですが昨日書いた、公共施設、まして小・中学校のバリアフリー化なんて最優先事項だろう、一体今まで何に予算を使ってきたんでしょうかこの町は、とか、車椅子程度で「命の大切さ」に関わるような恐ろしい中学は普通に危険だよな、とか、東 奈良男町長(良い名ですね)の新年のご挨拶

私が思い描く下市町の姿は、農林業の産業や商工業が活発で、生活環境が整備され、教育と福祉の充実した下市町であり、日々の暮らしの中で安全と安心が実感できる本当の笑顔が生まれるような町

 ってゆうとても立派な理想は早くも頓挫しちゃった訳だけど、とか、そもそも市なのか町なのか、とかはエントリーにすることを自重し、代わりにこのエントリーを上げる事にします。よろしくご了承下さい。

*1:それに限った話じゃないですが。はてな議論にはつきものですかね。

*2:そう言えば私の妹も時々使います。生まれつき足が悪い、とつい最近検査で解ったらしいので