偽装を一番批判できるのは誰か。※追記あります

 心底どうでも良いことでしょうが、今日はホントは昨日のエントリー最後のネタ「さだまさしで島おこし 対馬防人の詩の島新法」超党派議連が提案」がいかに完成度の高いネタであるかを元まっさんファンのプライドにかけて熱く語ろうと思っていたんですが、なんか全然そんな空気じゃないですね。昨日のTB・言及先では今まさに議論が炸裂いたしております。ええ見事にかみ合ってません。
 昨日のエントリーでは当初、ニセ科学批判的な指摘は敢えて避けていた*1んですが、昨日引用したNATROM先生のエントリーのコメント欄を見て、私も一言言及する必要性を感じました。

> 支持しようかどうしようか迷っている人に示唆を与えたり、教育や政治の場に入ってこようとするのを防いだりするのが目的であれば、意味があります。

いや、意味ないと思うよ。少なくとも合理的な意味はない。たとえば振り込め詐欺防止キャンペーンをやれば犯罪抑止に一定の効果がある。しかしそれは人々の警戒心や恐怖心を煽ることが効果の主成分なのであって、詐欺か詐欺でないかの判断能力を人々に授けるものではない。

 私は実際、NATROM先生はじめニセ科学批判者の活動によって大いに示唆を受けているので、上記のtittonさんのコメントは間違えてます。少なくとも私にとっては実に意味のある活動です。御陰でトルマリンのリンゴ型置物*2を買わずに済みましたし。
 NATROM先生、TAKESANはじめ優れた見識を持った方々がよってたかってフルボッコ丁寧に反論されているので、他には特に私から付け加えるモノはないです。ただ、インターネットください様で面白い関連エントリーが上がっていましたので、これに更に関連して。
疑似科学商品にはこんな注意書きを印刷すべき

こんにゃくゼリーも大きな絵と文字で注意書きが袋に記載されているので、疑似科学を元にした商品にもちゃんと注意書きを載せるべきだと思うよ。例えば以下のようなもの。

「この商品の機能はフィクションであり、実際の効能・効果とは一切関係がありません。」

「この商品の機能は科学的・統計学的な裏付けが一切ありませんが、○○(制作者)が自信を持って効果を確信していることのみは保証します。ソースは脳内です。」

風の息づかいを感じていれば、多分効果があったはずだ。」
以下略。

 このブログでは、一貫して「ニセ科学批判」という言葉を使っています。それは、本音を言うと「疑似科学批判」に含有され得る境界的な事例に対応できるほどの知識が無いからなんですが*3、それをひた隠しにするなら

何を「ニセ科学」と呼ぶか
「科学ではない」のに「科学を装っている」もの。

「科学ではない」
1. 反証不可能でポパー的に見て科学ではないもの (ポパー的非科学)
2. 反証可能なだけではなく、すでに反証されてしまっているもの (間違った科学)
3. 反証可能で直接には反証されていないが、他の科学知識と整合しないので反証する必要のないもの(間違った仮説)
4. 反証可能だが実証も反証もされていないもの(未科学

※引用はニセ科学批判まとめ %作成中より。
 上記のように定義されるニセ科学を批判することに、ダイレクトな正当性を感じるからです。
 当たり前ですが、疑似科学を元にした商品に注意書きはされていません。これは一種の偽装であると言えます。偽装を批判することは正当な行為です。
 では、だれが批判するべきなのでしょう。いや、批判する自由は誰にでもあるので、別に誰が批判してもかまわないようなモノですが、文句を付けるにしたって当事者と非当事者では重みが違いますよね? 誰が批判することが一番相応しいか、誰の批判を一番重く受け止めるべきか、という話だとお考え下さい。
 例えば食品偽装事件が起こった時、その商品に対して「批判をする権利」を一番持っているのは誰でしょうか? 真っ先に思い浮かぶのは、その商品によって健康に被害をもたらされた者、です。一番重要な健康や生命に被害を受けた者が、事件の一番の被害者であり当事者である、よって一番文句を言っていい、と言う考えですね。
 食品偽装事件においては健康被害が出ない場合もあり得ますが、それでも金銭的な被害者は存在しますので、その時は彼らが一番の当事者となります。モチロン被害は直接的なモノだけではありません。ブランドを偽装されれば金銭的価値以外に、信用等が損なわれることもあり得るでしょう。
 では、科学を偽装する「ニセ科学」についてはどうでしょう。
 食品偽装事件の例で言うなら、被害者が一番文句を言っていい。金銭的な、あるいは健康面で被害を受けたなら、当然その人の優先順位が一番高いです。
 科学の優先順位は、どのくらいでしょうか。偽装された「当事者」であり、ブランド価値を下げられた被害者でもありますので、優先順位は対象によってはかなり上位になるでしょう。例えば、対象が「水伝」である場合とか。
 私はそう考えますので、

水伝の実験が科学的でないという批判までは「科学的な疑似科学批判」だから科学の名の下に行っていいが、その勢いのまま「科学を騙るのはけしからん」と政治的な批判に持ち込むのは、科学の威を借りて政治的主張をしているように見える。

このtittonさんのコメントは、少々ピントがずれていると思います。騙られた被害者として、当事者として、「科学」は科学の名の下に批判するべきなのではないでしょうか。

追記 2009/01/24
 apjさん*4にコメント頂きました。実に簡潔かつ的確な例えで解りやすいです。このエントリーいらないじゃん。
 科学が信用されている背景には、厳しい品質管理があります。手続きをすっ飛ばして科学を名乗るニセ科学は品質管理を行っていないパチモンで、そもそも科学の信用にただ乗りする行為ですし、出回れば科学そのものの信用に傷を付けかねません。
 だから科学サイドとしては「粗悪な類似品に注意して下さい」と宣伝する。それがニセ科学批判だと私は(も?)考えています*5

*1:名だたる論者が既になさっておいででしたし。自分の器を知ると言うことはとても大事なことですよ。

*2:置くだけで有害な電磁波を残らず除去する代物。今思うと買ってネタにした方が良かったかも……。

*3:この辺、科学を直接定義することが難しいくせに科学でないことは比較的容易に判断できる科学の面白い特性が関連しそうです。御陰で私程度でもそれなりにニセ科学を批判することが可能です。あくまでも、それなりに。

*4:しかもNOTyamagata。しかし、TAKESANといい亀@渋研Xさんといいさつきさんといい、皆様気さくで素敵な方達です。ニセ科学批判者が堅苦しい権威主義者だと思っている人がいたら、それはとんでもない誤解ですと私ん所のコメント欄を見せつけてさしあげたいですよ。単なる自慢ですが。

*5:この理路はかなり説得力があると思うんですけど、受け入れない人もいるんだよなぁ