ことほど左様に言葉は難しい

 追記あります。
追加エントリー本当に、言葉を理解するのは難しい。時系列順に関連エントリーを並べてみました。感想、指摘等ありましたらこちらのコメント欄でお願いします。


 昨日の続きです。いやあ、タグ付けはやっぱり難しいですね。え? そっちじゃない?
 私はこれから、汚らわしき4つ足の者どもから刳り抜いた臓物に異臭を放ちぐちゃぐちゃになるまで放置した穀物を塗りたくり、人の形にも見える植物の根と大鍋でデロデロになるまで煮込んだ秘薬*1を、聖霊を従え神の名を冠した饐えて泡立つ麦汁*2と共に啜りこむ人によっては死の危険と隣り合わせ*3の儀式をこの後執り行わなければならないので、簡潔にまとめたいと思います。

前提

 先ずは状況をおさらいします。断るまでもなくこれは私の私感に基づく物ですので、ご存じない方はリンク先をお確かめください。もちろん、私を信じてくださっても結構ですよ?(キラッ)。また、異議のある方は遠慮無く仰ってください。 
 発端は、TAKESANの「Interdisciplinary」のエントリー言葉を理解するにおけるTAKESANのこのコメントです。

水伝の検証不能性には、おおまかに2つの観点があると思います。

一つは、言語の恣意性の問題。語形と語義に必然的な結びつきが無い、という論理で、言語は本質的に無契的に構成し得る、という所から、水伝の主張する、ある言語体系で、良い・好ましい とされる「機能を担わされている」語に選択的に反応して結晶を構成する、というのが原理的に成り立たない、というのが導けます。

なぜならば、言語の機能は物理的実体と必然的な結びつきが無い故に、あらゆる言語に通底する「良い言葉」が定義・定量不能であるから。

そして、この論理を無視すれば、観測不能な概念を持ち出して理路を短絡して説明するしか無い訳で、そうすると今度は、検証不能であるのを自ら示している、という風にみる事が出来ます。

 このコメントは、黒猫亭さんのコメント

うーん、オレの理解が足らないのかもしれませんが、このロジックの結論が検証不能性なのは、少し噛み合っていない印象を持ちました。

これは「水が言葉に影響を受けると謂う理論の原理的な不審さ」を指摘するプレゼンテーションとしてはわかりやすいと思います。

しかし、「検証不能性」と謂う問題については、原理的に不審だろうが何だろうが、「そう謂う現象がもし存在するとして、それを科学的に確認することが出来るのかどうか」と謂う論点になるんだと思います。

 これを受けての物です。
 先ず前提として。この「言葉を理解する」というエントリーは、言語を認識するために必要なプロセスを丹念に説明し、その複雑さを示すことで水伝の「水は言葉の善し悪しを判断できる」という主張に対抗しよう、という意図によって上げられました。実際、引用する前の部分でTAKESANはこう仰っておいでです。

このエントリーの主眼は、基本的には文字認知と言語の解釈にはどういう仕組みが必要か、というのを論理的に考えていく、という所にあって、実は、水伝の検証不能の問題というのは、最初は一言も書かないようにしようかと思いました。

 だからこそ、コメント欄で検証不能の問題を補足しようと思われたのでしょう。
 注目すべきは、TAKESANはここでは「水が学習する」と言う仮定を完全に排除していることです。なぜならエントリー自体、

ざっと書いてこれくらいの複雑さがある、というのを示しました。そしてこれは、「水が情報を保存する」とか「水が学習する」などという反論「のために」用意した文章です。

 である以上、黒猫亭さん言うように、水が学習するという反論はエントリーにもまたこのコメントでも最初から想定していません。まさにその為に用意した文章を越えて、さらに水の学習、昨日のエントリーで言う所の中枢説を振りかざすまともに論考ができる人がいるとは、思ってもいないということです。
 この前提が果たして正当だったかどうかはともかく。TAKESANのコメントにこの前提があることは重要で、あくまで水伝の検証可能性を自然科学として捉えている事を表しています。

blupyさんの主張

 さて、blupyさんはTAKESANのこの検証不能の指摘に問題があると考えておられます。なお、TAKESANは二つの観点を提出されましたが、昨日(っていうか今朝)頂いたコメントによるとblupyさんは

私は一貫して1つ目の「言語の恣意性」を根拠とした説明を批判しています。

 つまり最初に引用した部分を批判為されているとのことですので割愛します。他にもblupyさんは興味深い指摘を為されておいでですが、今日はこの一点に絞って考察していきたいと思います。もつ鍋儀式が迫ってますので。
 blupyさんによる批判は以下の通り。

心理学は、刺激(S)と反応(R)の関係から、人に普遍的な、行動や、脳や心など生活体・媒介(O)を理解しようとする学問です。
(中略)
TAKESANさんは、刺激が言語の場合、言語は語形と語義に必然的関係がなく、あらゆる文化に共有するものが定義、定量化できないから、検証不可能だといってるのですよ。つまり、刺激が言語なので検証不可能だとしている。
 これを暴論だと思いませんか?
そしてこうした特殊な立場に立ちながら、水伝にはそれを適用し、心理学には適用しない。それを批判しているのですよ。

blupyさんは

私の主張の骨子は、言語が恣意的だから水伝が検証不能と言えるとすると、言語を扱っている認知や社会心理の命題の多くも検証不能になる。しかしその立場は間違っている。だから言語が恣意的だから水伝が検証不能とは言えないという背理法的なものです。

 と言う立場から立論されておいでです。しかも「TAKESANさんが(本人が意図せず)いってることです。」「多分、検証不能について、TAKESANさんの表現の問題、ということになるんだろうけどもっかいよく読んで見てください。」と表現していることから、どうやらTAKESANが本気でそう主張しているのではなく「検証不能」について誤解しているんだろう、と考えておられるようです。

私の結論:前提の違いが生むすれ違い

 昨日のエントリーで、私はお二人の話が食い違っているのは、blupyさんがTAKESANの主張の前提条件を汲み損なったからだ、と結論しました。誤読であるか表現が悪かったのかはともかくとして。前提条件とは詰まる所中枢説の有無、及び水伝の主張に対する受け止め方にあるようです。

なぜならば、言語の機能は物理的実体と必然的な結びつきが無い故に、あらゆる言語に通底する「良い言葉」が定義・定量不能であるから。

TAKESANのこのコメントは、水伝に対して対象が水という物理的な存在であり、検証は自然科学の手法で行うことが前提となっています。水が受け取る刺激は言葉ではなく言葉の物理特性である、と言う立場に立っているとも言えますね。中枢説を棄却するなら、別段不思議な態度でもないですよね。水が感覚器を含めた言語中枢を持ってなかったなら、水が受け取る物は物理特性の他には考えにくい。少なくとも語義を受け取ることはありません。
 さて、注目するべきはこの部分です。物理的実体と必然的な結びつきが無い「故に」。blupyさんの批判は「あらゆる言語に通底する「良い言葉」が定義・定量不能であるから。」この言葉にかかっていますが、この「故に」はこの言葉が前提条件を持っていることを示唆しています。で、その条件とは勿論、「言語の機能は物理的実体と必然的な結びつきが無い」です。
 blupyさんは、この部分を

TAKESANさんの議論は「言語が複雑だから」、語義と語形に必然的関係がないから…という話ですよね?感覚器の有無は、おっしゃるように水と人間で決定的な違いはありますが、彼は「言語の」問題に還元しているので水か人間か動物かもはや関係がないはずです。

 と解釈されましたが、実を言うとそう解釈しておられるのかが私にはずっと不思議でした。コメント欄でやり取りし、黒猫亭さんから示唆を受けて今は何となくその理由がわかっています。要するに、私とTAKESANは前提を共有していたからこの言葉に不信を覚えなかったんだ、と。前提とは、水伝の主張と水に中枢が無い、感覚器がないと言うことです。
 水伝の主張とは、詰まる所「良い言葉には良い力があるから良い効果を生む」です。対象が水であれば、水が言葉の良い力を受け取って変化しなければならない。水に中枢が無いならば受け取るのは当然物理特性となります。物理特性と「良い言葉」の間に関連性がなければ、検証はできません。例えば同じ言葉でも意味は変わりますが、水が受け取る物理特性は同じですので同じ反応を返すはずです。明確ですね。TAKESANはこのことを「言葉を理解する」の次の応答エントリー

水伝は、「言葉」そのものを問題にしています。言葉を媒介にしてある現象が起こると言っているので、言葉の性質を踏まえていなくてはならない。でも、文脈や多義性を完全に無視してますね。当然、文脈というのは言語の恣意性と深く関わっています。

こうも主張しています。も、というのは、以前違う言葉で表現しておられたからです。勿論

一つは、言語の恣意性の問題。語形と語義に必然的な結びつきが無い、という論理で、言語は本質的に無契的に構成し得る、という所から、水伝の主張する、ある言語体系で、良い・好ましい とされる「機能を担わされている」語に選択的に反応して結晶を構成する、というのが原理的に成り立たない、というのが導けます。

なぜならば、言語の機能は物理的実体と必然的な結びつきが無い故に、あらゆる言語に通底する「良い言葉」が定義・定量不能であるから。

 このコメントのことです。
 つまりblupyさんが批判されている言葉は、中枢説を考慮せず水伝の主張に即してみると、きわめて妥当かつ穏当なコメントである、そう解釈できる、した、ということです。最後の「「良い言葉」が定義・定量不能」というのも、「良い言葉」を物理特性として定義・定量化できない、そう読めるし、読みました。
 端的に言うなら。blupyさんは、TAKESANの言葉を額面通り受け取り、水伝以外にも適応して

TAKESANの議論だと、実験者が特定の意味を持たせた言語刺激に選択的な反応を調べる実験はすべて検証不能ということになってしまいます。だってその言語刺激とその意味とに必然的な関係はないのだから。

そう指摘されたのでしょうが、そしてそれは無理からぬ所もあると思いますが、それはTAKESANが想定していた読みではない、と言うことです。前提を受け取れば、TAKESANの言葉は水伝にのみ限定された言葉であることが解ります。勿論、それが妥当な読みかどうかは別ですよ? まして、あのエントリーの性質が一種のツールであることを考えれば。
 以上が私の解釈です。

おまけ

 blupyさんへ。お忙しいようですが(はてなIDをお使いになっていないようですね?)、お返事は急がなくても大丈夫です。むしろ、どんな環境で書き込まれているかは解りませんが一度皆さんのコメントをじっくりと読まれて(掲示板にも書き込みがありましたし)、その上でお返事を頂けるならその方が喜ばしいと考えます。
勿論、他の方も含めコメント・TBはいつでも大歓迎です。

追記

 blupyさんからコメント頂きましたが、どうも上手く伝わっていないように感じます。なので、エントリー内容をざくっとまとめておこうと思います。
 私の主張は、お二方が前提を共有しておられなかったために「言語の恣意性」の意味がまさしく言語の恣意性によって食い違っている、というものです。blupyさんはこの言葉を額面通りに受け取って、その対象を他の学問領域にまで広げ――それを誤読と呼ぶのは確かに酷だと私は思います――てTAKESANを批判していらっしゃいます。けれど、TAKESANの意図はそこになく、単に水伝の検証不能性について物理特性と語義との結びつきの性質をその言葉で表しているだけじゃないですか? と言うのがこのエントリーの主題です。※誤解を招いているようなので追記します。私はTAKESANの立場そのものに関しては一切触れていません。あくまでも当該コメント部分の解釈であることを明記しておきます。
 

 追記2009/03/02
 以下は私が仮定した解釈です。blupyさんの指摘を受けて一部修正しました。『』内が追加した部分です。また、「言語の恣意性の問題」と「語形と語義に必然的な結びつきが無い」を入れ替えました。ご迷惑おかけしました。


 水伝が正しい事を検証するには、以下の条件が必要です。
「SHINE」を例に挙げましょう。この言葉の持つ物理特性は語義と関係ありません、少なくとも文字で表したのなら。ただ、受け取る人によってこの言葉は「死ね」「シャイン」「事呢*4」と様々な語義に取ることができます。前提として、水が物理特性しか受け取らないのだとしたら『水が言語を学習せず理解できないとしたら、』「SHINE」に対する反応は同じになるはずです。水伝の主張は「良い言葉は綺麗な結晶を作る」ですから、語義と物理特性に必然的繋がりがないが乖離している言葉の存在『性質』は水伝に対する有効な反論となり得ます。良い言葉とも悪い言葉とも取れる言葉は、どう結晶しても水伝の主張に反する、ということですね。逆に言うなら、水伝を肯定する結果を出したければあらゆる言語・文化に共通して良い言葉、ある物理特性が良い言葉以外を意味しない言葉が必要です。でなければ、どんなに綺麗に結晶したとしても「いや、それ悪い意味あるから」と言われてしまいますからね。
 で、そんな言葉は存在するんでしょうか?

 
 さて。以上をTAKESANの言葉を補いながら繰り返してみます。()及び適時言葉を追加しました。赤字がTAKESANの言葉です。

 水伝が正しい事を検証するには、以下の条件が必要です。。
「SHINE」を例に挙げましょう。この言葉の持つ物理特性は語義と関係ありません(語形と語義に必然的な結びつきが無い)、少なくとも文字で表したのなら。ただ、受け取る人によってこの言葉は「死ね」「シャイン」「事呢」と様々な語義に取ることができます(言語の恣意性の問題)。前提として、水が物理特性しか受け取らないのだとしたら、『水が言語を学習せず理解できないとしたら、』「SHINE」に対する反応は同じになるはずです。水伝の主張は「良い言葉は綺麗な結晶を作る」つまりある言語体系で、良い・好ましい とされる「機能を担わされている」語に選択的に反応して結晶を構成する、ですから、語義と『物理特性に必然的繋がりがない』物理特性が乖離している言語の機能は物理的実体と必然的な結びつきが無い)言葉の存在『性質』は水伝に対する有効な反論となり得ます。良い言葉とも悪い言葉とも取れる言葉は、どう結晶しても水伝の主張に反する(原理的に成り立たない)、ということですね。逆に言うなら、水伝を肯定する結果を出したければあらゆる言語・文化に共通して良い言葉、ある物理特性が良い言葉以外を意味しない言葉が必要です。でなければ、どんなに綺麗に結晶したとしても「いや、それ悪い意味あるから」と言われてしまいますからね。
 で、そんな言葉は存在するんでしょうか?(あらゆる言語に通底する「良い言葉」が定義・定量不能であるから)。

 補足したのは、勿論問題のTAKESANのコメントです。ほぼ使い切りました。 
 どうでしょう。こう解釈することに、何か無理があるでしょうか?
 

終結論 2009/03/03追記

 さて、コメント欄にて皆様と30に及ぶ遣り取りを経て、私の認識も大分固まりました。細かく修正していくとエントリーが著しく読みづらくなりますし、過分な評価を頂いていることでもありますので、エントリーの修正は最小限にとどめ、ここに現時点での私の考えを記してエントリーの〆としたいと思います。
 といっても、結論は変わりません。「前提が違うために両者で読みが食い違い、そのズレが埋まらなかった」。文字だけを純粋に批判的に取り上げるならblupyさんのような読みはあり得るし、一方TAKESANのエントリーの性質を考え、前提部分を受け入れるならTAKESANの真意はキチンと伝わる、実際多くの人は受け取っているので、表現上の問題も無い(あるいは小さいと判断できる)。つまり、非難されるようなことはこの件にはそもそも無かった、というのが私の結論です。誰も悪い人がいなくとも、ディスコミュニケーションは起こりうる、言葉の理解の難しさをこの一件はこの上なく証明したのではないでしょうか。
 さて、詳論です。まずは、問題のコメントを再掲します。

水伝の検証不能性には、おおまかに2つの観点があると思います。

一つは、言語の恣意性の問題。語形と語義に必然的な結びつきが無い、という論理で、言語は本質的に無契的に構成し得る、という所から、水伝の主張する、ある言語体系で、良い・好ましい とされる「機能を担わされている」語に選択的に反応して結晶を構成する、というのが原理的に成り立たない、というのが導けます。

なぜならば、言語の機能は物理的実体と必然的な結びつきが無い故に、あらゆる言語に通底する「良い言葉」が定義・定量不能であるから。

そして、この論理を無視すれば、観測不能な概念を持ち出して理路を短絡して説明するしか無い訳で、そうすると今度は、検証不能であるのを自ら示している、という風にみる事が出来ます。

 このコメントは、言語の恣意性の「問題」が、水伝の検証不能性に深く関わっている事を説明しています。まず言語の恣意性について概説し、言葉の持つその性質が水伝の主張を成り立たせないと示唆、理由として「あらゆる言語に通底する「良い言葉」が定義・定量不能であるから」と答えています。
 私のエントリーでは様々な前提を提出していますが、実は注意しなくてはならない最大の前提は、「そもそもこのTAKESANのエントリーは、専門用語を使わずに言葉の観点から水伝を評価したものである。」という当たり前と言えばこれ程当たり前な事は無い事実です。しかしこの前提を無視するなら、ここで言及されない「水伝」及び「言葉の恣意性」以外の前提要素を、TAKESANが水伝の検証不能性に関して考慮していない、と受け取られかねません。TAKESANが「水伝は言葉の恣意性の問題だけから検証不能と言える」と主張している、という主張が導かれる要因の一つがそこにあると思います。
 さて、水伝の主張は良い言葉―ありがとう(語形)―綺麗な結晶がダイレクトに繋がっている、という主張です。この主張を検証するには、言うまでもなく良い言葉と語形が繋がった言葉が必要です。逆に言えばその繋がりが分断されているなら検証することができなくなります。例えば、ありがとうを良い言葉と考えない人が一人でもいれば、どんなに綺麗に結晶しても水伝の証明にはなりません(そして、日本語をしゃべらない多くの人がありがとうを良い言葉とは思わないでしょう)。良い言葉以外の意味を取れない語形が必要となるゆえんはそこにあります。
 ご存じのように、「あらゆる言語に通底する「良い言葉」」は存在しません。理由は、「良い」と思うことが人によって違う事と、言語に文脈依存性があるから、そして「言葉の恣意性」があるからです。いずれも、価値あるいは言葉に両義性を含む要因となります。である以上、水伝は検証不能です。気をつけたいのは「あらゆる言語に通底する「良い言葉」がないから」検証不能であるのは、水伝自体が「文化に依らない良い言葉」と「語形」がダイレクトに繋がっている、と主張しているからです。そう主張してないどの命題にも、この論旨は敷衍できないことを忘れてはいけません。
 付け加えると、検証不能性は言語の文脈依存性の観点から発展させる事も可能です。そう表現した方がシンプルで、誤解も受けなかったとは思います。しかし、元のTAKESANのエントリーで文脈依存性に関しては十分に触れられていますし、そもそも論証可能性について足りない部分にかんして補足したコメントであることを考える必要があるでしょう。
 

 如何でしょうか? TAKESANが決して、「水伝の主張は言語の恣意性のみで検証不能」とは主張していないことがお解りになられたでしょうか。

*1:もつ鍋とも言う

*2:麒麟ヱビス

*3:未成年とか肝臓が悪い人とか単に酒がダメな人

*4:中国語:事ね?位の意味、だとおもふ……